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Art as an Act of Charity

慈愛としての芸術

 

ブリガムヤング大学芸術部に送られたスピーチ

1990年10月

 

オースン・スコット・カード

 

再び故郷に帰って来れた事を感謝しています。私はスピーチをする機会が沢山ありますが、普通は末日聖徒にではなく、主に芸術だけに興味のある人々に向かってするので、自分にとって最も大切な事の半分も自由に話す事が出来ません。末日聖徒の聞き手に話す機会があるときは、福音についてお話しする事は出来るのですが、私にとって大切な芸術については、普通お話しする事は出来ません。ですから、今日は私にとって人生の中でとても大切な、この両方の事柄に関連して生活しておられる方々にお話しできる唯一の機会を与えられています。

 

このハリス・ファインアートセンターに戻ってくる事が出来ました事もとてもうれしく思っています。60年代後半に演劇学部の学生として、ここで時を過ごした事を良く覚えています。私たちはマサソイトの彫刻や研究劇場の入り口あたりに座って、教授達の好みより遥かに大きな音で、ギターを弾き、フォークソングを歌っていた、大変目立つ集団でした。当時私達は、BYU外の学生が、世界を変える事を夢見て権力者に反発していた事をよく知っていました。BYUでは私たちはもちろん反発はしませんでした、なぜなら、反発した学生達はBYUには残れなかったからです。しかし、違った意味での革命家になる事を夢見ていました。

 

演劇脚本を当時から現在にいたるまでここで教えておられるチャールズ・ウィットマン教授に、私たち多くの学生が、末日聖徒を対象に作るモルモン演劇のビジョンに感銘したのを良く思えています。しかしながら、それを説いていたのは、彼だけではありませんでした。当時、私は画家4人と住んでいましたが、音楽専攻とダンス専攻の良い友達がおりまして、私たちもモルモン芸術について語り合っていました。当時は、その課題は空気中に存在するだけのものでした。私達はそれを吸い込み、夢見ました。そして、幾人かは、その後、それを人生としました。

 

時には、モルモン芸術家でありながら、モルモン社会を出て、世界を変えるんだという、より大胆な夢を語り合ったりしたものです。幾人かはその夢さえも実現しました。多分世界はほんの少ししか変わっていないかもしれませんが、それでも私達は確実に変えているのです。

 

他の作家達に芸術が世界を変える事について話をする時、沢山の人が私の事を変人を見るかの様に見る事は事実です。「僕らはただお話を書くだけだよ。」と多くの作家は言います。「僕らが求めているのはニューヨーカーに載る事だけだよ。少しの真実と美を作れれば上等。世界を変えようなんてしてはいないよ。」

 

芸術家は世界を変えるのではなく、ただ単に評価されるだけだという事は皆が知っている事でしょう? 大統領、軍の幹部達、弁護士、会社の社長、こういう人たちが世界を変えるのであって、芸術家はその世界を飾るだけですよね?

 

それは違います。芸術作品を創造し、観衆と分かち合うすべを学ぶ我々は、世界を発明するものなのです。我々(芸術家)は、ビジョンと、音楽と、物語を人々の記憶に導入するのです。それが小さな観衆であっても、私達の芸術により、 我々の作品のおかげで、 全ての観衆は、 記憶の中に値のつけようもない、すばらしい贈り物をもらうのです。

 

形になった芸術を分かち合う事は、この世で、他の人の心と思考の中に本当に何があるのかを知る最高のすべなのです。少しの間ですが、観衆として、社会として、私達は一つになります。

 

 

キリストの、この世に置ける働きの中で、多くが芸術を作る事に捧げられたのも、決して偶然ではありません。彼の偉大なる購いと犠牲は、いかなる現世の類推をも超越した永遠の行為であり、今現在もその効力を及ぼすものであります。しかし、彼のなされた、いわば一時的な働きの中で、今も生き残っているものは何でしょう? 彼の築いた教会は時と共に崩壊しました。教義は乱され、忘れられ、そして失われました。彼の聖徒達は殺されました。彼のいやした人々はやがて死んで行きました。しかし彼の物語や、あまりにも簡単なたとえ話は生き残りました。言葉から成る教義は時と共に再翻訳される可能性があり、事実殆どの場合、もっと便利な意味に再解釈されるのですが、何気ない出来事に関連したお話は、観衆に気づかれず、偽物だと罵倒されることがない上、再翻訳するのは大変難しいものです。

 

ご承知の様に、「この岩の上に我が教会を建てる」と言う、救い主の宣言は、人によって違った意味を持つ事が可能です。しかし、属に言う「良きサマリア人」は、実は優れたビジネスマンであって、良い行いをする事で、宿の主人を感心させ、後に自分との商売を成立させる様に仕向けたのであって、そのお話にあるキリストの教えは、ビジネスで成功する為には、まず宣伝を成功させる事が大切であるというものです、と私が言うならば、皆さんは私が嘘をついていると言う事が明らかに分かるでしょう。教義が人の手によって変えられる可能性があり、事実常に変えられて来たのに対して、はっきりとした、単純な物語は、変えられる事なく生き残ります。

 

彼が持つ数多くの存在の意味の中で、キリストは、創造者、芸術家、形作る人であり、今もそうであります。そして、彼の語った物語は、当時は砂漠の果ての、困難な逆流の淵(そのようなところに御自分の人生の中で立たされた経験がある事を思い出される方も多いでしょう)で、たった数千人にしか聞かれなかった物語が、今では何億人もの人々の記憶の一部に納められているのです。キリストが、「私は道である。私について来なさい。」と言われた時、彼は他の人々に語られていたと同時に、芸術家にも語られていたのです。

 

芸術家にとって、自分は他の人々とは違うんだと考え始めてしまう誘惑が多々あります。もっとも、ある点では私達は普通の人とは少し違ってくる事は免れることはできません。私達は普通、店やオフィスに通勤して仕事をするという形はとりません。常に家にいて、他人から見ると、まるで無職である様に見えます。(特に銀行員のような方々にはそのように写ると思います。)上司という、自分を監視する事を義務づけられた人は、私達が依頼しない限り存在しません。収入は毎週でも毎月でもありません。(この事実も、銀行員に方にとっては特にすばらしいとも思われない事でしょう。)カリフォルニアの「死の砂漠」(デスバレー)に雨が降るがごとく報酬を受けます。そして、全く何の前ぶれも無く、観衆が突然ふくれあがり、収入はたちまちアマゾンの雨をも反映し始めます。しかし、何がそのような変化をもたらしたのかを私達は知る余地もありません。

 

私達は需要に応じて製造すると言う事を、必ずしも出来るわけではありません。自分の作品は、自分にとっても予期できないものなのです。何一つとして予定通りに行きません、言い換えれば、仕事の予定を立てる事も出来ないのです。我々は変わった抑制方法を習得しますし、世の中を違った目で見ます。 自分の発言の殆どが、 無意識のうちに他の人々を驚かせてしまいます。

 

しかしながら、私達がしている、あるいはいつかするであろう様に、救い主ご自身も、 我々の言葉や作品を愛してくださる人々が通るような、普通の人の通る道の外側を通られたのではないでしょうか? 我々の持つ、普通の人との違いや芸術は、我々を救い主に近づけさせてくれるべきです。しかしながら、残念な事に、大変多くの末日聖徒の芸術家達は、芸術の追求を理由に、主と教会から遠ざかってしまっています。

 

教会は主によって築かれたコミュニティー、もっと厳密に言うと、教会とは、神の権限のもとに、末日聖徒によって築かれたコミュニティーです。それはお互いに仕える為、世に福音をもたらす為、そして、人生の中で主の導きを受ける為に使う道具であります。

 

私はエンサインの副編集長として教会事務所で働いていたとき、お恥ずかしい事ですが、「僕は毎日教会の為に働いているんだから、日曜日くらい休息の日をいただいてもいいんじゃないか」と思っていた事があります。この正当化は自分の所属しているワードで意味のある参加をしない言い訳になりました。後に私は自分の間違いに気づきました。教会事務所は教会ではありません。そこで働いている人々全てにとっても、他の人と同じ様に、教会とは所属するワードや支部です。そして、その中での自分のアイデンティティーが、つまり信仰深く果たしている召しなのです。これは誰の場合でも同じであり、私はこの事を神様にとても感謝しています。それは、とても知恵があり、才能がありすぎて、もしくはとても重要な人物なので、もう、謙遜で、信仰深い教会の奉仕によって、得たり、与えたりする必要が無いと言うような人は誰一人としていないのです。

 

しかしながら、自分は芸術家だから、全ての聖徒に与えられたまっすぐで細い道を歩かなくても良いと感じている末日聖徒を、私は多すぎる程知っています。代わりに、彼らは自滅に導く広い道を歩く事を選んでしまっています。彼らが見えていないのは、そのような選びをする時、彼らは宗教よりも芸術を選んでいるのではなく、実は宗教も芸術も拒んでいるのだと言う事です。

 

今日は皆さんに忠告をしたいと思います。ここ(BYU)に来られた時に、この学科を選ばれたので、自分はこの学科の為にここに来たのだと誰かが説くのを聞かれるかと思いますので、ご存知かどうかは別として、ここで、もうすでに出会われたかもしれない、七つの誘惑、ニーファイとリーハイが見た汚れた水の流れる川に続く七つの迷い道について警告をしたいと思います。そして、その後、「大きくて広い建物」の少なくとも一フロアに住んでいる方々のお話をしてさし上げたいと思います。

 

もちろん、道と言うのはたとえです。あなた方の旅は空間ではなく、時間です。あなた方の選択は足でではなく心で行われます。道を選ぶと言うのは、あなた方の忠義心、自分のアイデンティティーを見つけ、価値の位置づけをする方法を身につけ、自分の作品にあなたがたの人生を映す事にあります。

 

1、 第一の迷い道は死んだ芸術家もしくは芸術に対する忠義心、あるいは反発です。冗談で私がよく言う事に次の様な事があります。芸術にはまってしまう2つの理由があり、一つは「いつか私もあのようなすばらしい事をしたいから」で、もう一つは、「あれが、出版、もしくは発表されるのなら、私でも芸術家になれる」です。

最初の理由は大変才能のある若い芸術家を過剰模写な作品へと導いてしまいます。二番目も、あなた方が認めない作品に対する反応として自分のキャリアを捧げるのであれば、それは同様に致命的です。(正直なところ、私は自分がそうであったので、二番目の理由の方が、まだ好きです)

 

もちろん、過去の芸術家に注意を払う事は不可欠です。自己の独創性にばかり没頭して、先輩達の達成した事や失敗から学ぶ事を怠る事は大変馬鹿げています。死んでしまった芸術家はテクニックを教えてくれます。彼らはあなた方に道具をくれます。可能性を見せてくれます。彼らは行き止まりの道への警告を与えてくれます。しかし、あなた方は彼らの死んだ手に自分達の作品の限界を示させてはいけません。

 

もし、芸術を学んだのなら、それは芸術家になる為の半分の準備しか出来ていない事になります。つまり、あなたは人生についても学ばなければなりません。そして、人生を知り、それを理解する為には、それに参加しなければなりません。それは模倣と呼ばれ、つまり現実であり、それとあなたの関係が、あなたの芸術はどうあるべきかを教えてくれます。

 

演劇学部の生徒だったとき、私は演劇の仕事から時間を取る一般教科の授業にとても反発をしていました。自分の人生の中で何をしたいか、私はすでに分かっていましたし、演劇こそが将来の自分に備える仕事だと思っていましたので、一般教養は私にとって時間の無駄でした。確かに、演劇の勉強では沢山の価値のある事を学びましたが、現在、実際に使う事、私の仕事で最も重要な事の殆どは、演劇外の勉強や読書で得た事です。テクニックも確かに必要ですが、私にはそれを使って書く何かが必要です。芸術家の作品についてのみ勉強するならば、確かに話し方は習得するかもしれませんが、話す事が何も無いと言う事になるかもしれません。

 

2、二番目の迷い道は、あなた方のキャリアに対する忠誠心です。誘惑はこんな風にささやくでしょう。「NEA奨学金さえ受けられれば、もっと真剣に自分の事を観てもらえるだろう」あるいは、「この作品でこれはできないよなー、だって、タイムス誌の評論家がくるだろうし・・・彼はこういうの好きじゃないんだよなー」または、「君の親友にはこのパーティーのことは内緒にしててくれ、だって彼、ナイーブすぎて、同席するギャラリーのオーナー達に良い印象を与えないだろうから」

 

ロシアの初期の共産思想家達は、革命を共に志す同士でも、キャリア主義を最も重い罪と考えていました。キャリア主義者というのは、革命の発展を目指してでは無く、革命の中で、もっと重要で、力のある地位に就く為に行動する人の事を言います。そして、その考えは正しかったのです。残酷な革命をよりいっそう大きな怪物に仕立て上げたのは、まさにそのキャリア主義者、スターリンでした。それは、ソビエトの共産貴族がキャリア主義者ばかりによって構成され、ついに、共産政治が人々による運動である最後の痕跡が消えてしまった頃でした。

 

末日聖徒にとってキャリア主義はいつでも間違いであり、それは単に芸術に限った事ではありません。デビッド・オー・マッケイ大管長が「家庭の失敗は他のどんな成功にも代わる事は出来ない。」と言われたとき、彼が何を意味していたかお分かりになるでしょうか? しかし、末日聖徒の芸術家にとっては、援助金や賞、もしくは良い評論を得る為に、わざと皮肉な選びをしてしまう事を防ぐ為にも、キャリア主義を避けるのはさらに大切な事です。もしあなた方の忠誠心がキャリアにあるならば、宗教を犠牲にするばかりか、この世の成功を表す表彰を得る為に、芸術さえも犠牲にしてしまうでしょう。

 

私は、現在そのようなこの世的な表彰を、偶然にも頂く事になり、いくつか受けました。自分の経験から申し上げますが、それらの表彰は確かに悪いものではありませんが、キャリア外で得た報いに比べれば、そんなに価値のあるものではありません。例えば、それは、本嫌いの子供や生徒が自分の本と出会い、今ではとても読書好きですと言う様な、親御さんや先生から時々頂く手紙です。私が頂いた中で、最高の賞は、ここプロボ市のファレール中学校の図書の先生から頂いたもので、「カードさん、あなたの書かれたエンダーのゲームはうちの図書館で最も沢山盗まれる本です。」と言うものでした。

 

このような瞬間は、誠実に真実を述べようとする芸術家一人一人にやがて訪れます。しかし、そのような報いを軽んじて、他の報酬に心を取られるならば、あなた方はやがて道に迷ってしまうでしょう。この世はあなた方の善良さに報いはくれませんが、善良な人々はあなたに報いをくれます。

 

3、三つ目の迷い道はお金への忠誠心です。誘惑はこのように聞こえるでしょう。「ここで逃走シーンがないとねー」。これは私が実際につい最近聞いたものです。「主人公は11歳じゃなくて16歳にした方がいいね。十代の視聴者を獲得しないといけないから。」これはなかなか良い例です。あるいは、「この作品は売れないけど、そんな感じの水平のランドスケープをもっとしてくれれば、飛ぶ様に売れると思うんだけど」

 

お金を追うのはキャリア主義と同じ事ではありません。キャリア主義者は名声や誇りを追いかけ、どん欲な芸術家は金の為なら何でもします。

 

ここで私は、芸術家は芸術でお金を儲けてはいけないと言っているのではありません。その労働は報酬に値するものだからです。自分の必要なもの、又は家族の必要なものを供給する責任は誰にもあります。芸術家の様に貧乏と言う言葉は美徳ではなく、ただの現実です。

 

これには理にかなった譲歩と自滅的なものとあります。もし、衣食を支える為に、本当にやりたい事を先延ばしにして、一番やりたい仕事ではないけれども、価値のある仕事をする事は妥協ではありません。これは、家族が居ればなおの事、大人としての行動です。作品を経済的に支えてくれる方の、理にかなった注文を消化するのは妥協ではありません。これは公平な価値を与えると言う事です。しかし、自分が恥じる、もしくは恥じるべき作品を、そうする事により名声やお金を更に得られるであろうと言う思いで作る事は身売りをする事です。

 

そして、ここが皮肉な部分なのですが、その広い道へ入ると、間もなくそれは闇に中に消えてしまいます。なぜなら、しばらくすると、良い作品とお金の為の作品の見分けがつかなくなってしまうからです。観衆はすぐにあなたの皮肉な態度に気がつき、遠のいてしまうでしょう。一方妥協をしない芸術家は、長い間犠牲を払うかもしれませんが、本当に良い芸術家であれば、いつかは、いくらかのお金が入ってくる様になり、善良な人々から、犠牲が報われる程度の名誉を与えられます。

 

しかし、覚えておいていただきたいのは、この線の判断は自分でしか出来ないと言う事です。報酬を沢山受けている人は皆妥協していると推測する事はあまりにも簡単な事です。それは安っぽい判断です。他の人には欲に見えるものでも、決してそうでない事もあります。たとえば、少し前に、皆さんからあちこちで聞こえました反応を期待しながら「Abyss 暗闇」と言う言葉を使わせていただきました。私は以前に、ジム・キャメロン作の映画「Abyss」という映画の改作をしました。沢山の方が、私が小説化したものを書いたので、妥協したに違いないと思われた事でしょう。しかし、映画に関係する全てのものが儲かるのではないという事は、あまり周知の事ではありません。 殆どの場合、映画の小説化の報酬はとるに足りないものです。小説化が殆ど新人の作家によってなされるのはその為です。

 

私は取りかかる前からこの仕事はあまりお金にならないと分かっていましたが、自分で独自の小説を書くよりも良い仕事をしました。その上、それは普通の仕事の倍の時間がかかりましたし、難易度も高いものでした。しかし、作者でありディレクターでもあるジム・キャメロンも私も、優れた小説から数多くすばらしい映画が作られて来ているのに対し、優れた映画からすばらしい小説は作れるだろうかと言う事を試してみたかったので、私はその仕事を受けました。双方大変な努力を要しましたが、私達はそれに成功したと思っています。

 

しかし、妥協に見える事でも、必ずしも妥協でない事もあると言う事を知っておく事は良い事です。時には、ある芸術的な不思議な研究の為の犠牲でもあります。まあそれが、成功だったか否か、やる価値のあるものだったか否か・・それは私が自分自身の意見を持っている様にあなた方も自身の意見を持つ自由があります。

 

4、 四番目の迷い道は、エリートに対する忠誠心です。誘惑はこのように聞こえます。「あなたに私の芸術がお分かりになるとは思っていません」とか、「ジャクソン・ポロックについての参照をご覧になりました?ああ、この右下の隅にありますよ」あるいは、「私はいつでも伝統的なメロディーを奏でる事は出来るのですが、それは高校時代にもう飽きちゃいましてね。」

 

文学では、ティー・エス・エリオットが、エリオットと友達同士の間で同じ本を読み、それを読んだ一握り程のエリートでないと分からない様な自意識過剰な詩を書き始めた事から始まりました。それは、主な喜びを、物語からではなく、語彙の解読から得ながら偉大な作品を作った、ジェームス・ジョイスによって引き継がれました。経験の薄い読者は意識的に除外され、この界隈では自分以外誰もこれを分かる人はいないと思う事自体が作品を読む主な喜びになっていました。

 

同じ様な現象が、同じ頃に他の芸術でも起こりました。何を表すでも無い芸術、ハーモニーの無い音楽は、人類が歴史を通してそのような芸術に価値を示し続けた理由をことごとく除去してしまいました。

 

なぜなら、新しいエリート主義者はもっともらしい重要な話や、十分な評論、ディーラー、バイヤー、それにエリート主義者がお金を儲けることのできる制度を作り出しました。それは大変資金のかかる共同芸術である映画や演劇では起こりませんでした。ですから、それらはエリートの視点が根強く生き残る事はあっても、主流になる事はありませんでした。

 

しかしながら、他の芸術では、エリートの勝利は完全でした。真剣な詩人達はアメリカの人々は詩を拒否していると思いこみ、今では、詩は、どうすれば作品を出版できるかを模索している他の詩人達だけに読まれている雑誌に記載されています。これは悲惨な事です。なぜなら、人々は沢山のすばらしい芸術家から隔離され、また、そのようなすばらしい芸術家達も本当に話しかけたいと願っている人々から隔離されているからです。

 

しかしながら、人々はこのような芸術に対してとても飢えています。ですから、もし真剣に取り組んでいる芸術家が飢えを満たしてあげないならば、彼らはその飢えをどこか他のところで満たそうとします。例えば、本の表紙、レコードのジャケット、カレンダー、野生の動物の写真等は、彼らの目で楽しむアートへの飢えを満たしてくれます。世の人々は、自分たちの好みにはとても注意深く、こだわりがあります。正式な批評なしでも、どれが最高かを選び抜きます。しかしながら、その「最高」は自分たち独自の標準で決めるのです。

 

詩や音楽に対する飢えは、現在はアメリカのポップソングで満たされています。実際には、このポップソングは他の世界に送り出されている本物の芸術よりも遥かに多く出回っているのですが・・そして、そのポップソングの中には、俗に言うまじめな詩や音楽よりも遥かにたくさんの種類があります。そして、その世界には、まじめな詩や音楽の世界よりも多くの感情的関連や偽物を防ぐ事のできる厳しい評論家がいる訳です。

 

ポップ音楽の中では、でっち上げや沢山の宣伝が目に入ると思いますが、世の観衆は、それらに対してきわめて免疫があり、誇大宣伝されているアーチストを無視しながら、宣伝されていない本物を探し出します。これは、他のまじめな芸術の世界では殆ど起こらない事です。まじめな芸術家が生き延びる為には宣伝は不可欠です。

 

ここで、私が申し上げているのは、そういうまじめな芸術が本来悪いと言う事ではありません。どんな芸術を信じ、心を入れ込んでいるかに関わらず、芸術家は全て自分の観衆を見つける権利があると私は思うのです。そして、観衆の側にも好きな芸術家を見つける権利があります。私がエリート達の事をとやかく申し上げるのは、彼らの芸術が云々と言うのではなく、そのエリート主義にあるのです。「まじめな芸術だけが注意を払う、もしくは作り上げる価値のあるものだ」と言う彼らの主張が私には納得いかないのです。彼らの態度は私達芸術家全てを蝕むので、そのような気取った態度には根本的に反対します。

 

エリート達は彼らの芸術に好感を持っていない人々までをも、彼らの芸術は何かの理由で「より良い」ものだと言い包めてしまっている節があります。生徒達は、ある詩や本を読んで、嫌いだと、この本は「良い」本に違いなく、「好き」だと、きっと悪い本に違いないと思う事を学んでしまいます。なぜならば、先生がそう言うからです。そして、世の中は、なぜアメリカ人は読書をしないのか不思議に思うのです・・?

 

最も許せないのは、代々に渡って、芸術は一握りの鍛錬を受けたプロの芸術家を喜ばせる為に作るものであり、大衆を的にして作品を作る事はその道で失敗する事だと教えられている事です。何億と言う人々の心に響く音楽を作れたであろう芸術家が、その代わりに、どんな努力しても愛を勝ち取る事の出来ない、よくいっても尊敬くらいしか得れない様な、ほんの一握りの疲れ切った芸術家を喜ばせる為に、自分の全才能をつぎ込む芸術家がいる事です。素人の観衆は影響される事にとてもオープンである一方で、エリートの観衆は驚きを感じる事のみを求めています。

 

そして、その事をエリート主義者達は知っているのです。彼らのポピュラーな芸術に対する嫉妬は至って明白です。そうでなければ、どうして「頭の無い」大衆と、それを満たす平凡な芸術家をあざ笑う事にあれほどの努力を費やすでしょうか。しかし私は皆さんに申し上げます。俗にいうまじめな芸術家よりもポピュラー芸術家の中の方が、才能が無く、皮肉で、キャリア主義で、金に飢えた凡人がいる割合が多いという事は決してありません。

 

そもそも何を根拠にエリート達は自分たちの事を「まじめな芸術家」と呼び始めたのでしょうか? 彼らは自分たち以外の芸術家はただ遊んでいるだけと思ってでもいるのでしょうか? ポピュラー芸術の本当の名称は大衆芸術と言って、つまり、エリート達が自分たち同士でやり取りしているのに対して、大衆に話しかける芸術と呼ばれます。彼らはそれ(エリート芸術)を続ける事は自由ですが、エリート観衆達だけが喜ばせるに値するものだと言う自由はありません。

 

それどころか、反対に、彼らにとって、エリート観衆は本物の新しい声にオープンでないので、あまり重要な対象ではないのです。大衆芸術の世界では、 情熱的な観衆とのひっきりなしのやり取りを通してもたらされる変化と改革は常時不可欠です。エリート主義者の間では1920年代に使われたテクニックはいまだなお「モダン」「試験的」と呼ばれています。これは玄関のしまったお店と同様です。それを受け入れるか、そうでなければ、死んでくださいと言ったところでしょうか。

 

キリストはパリサイ人にではなく普通の人々に教えを説きました。末日聖徒の芸術家には、もう後は言わなくともお分かりいただけると思います。

 

5、五つ目の迷い道は神秘主義への忠誠心です。芸術を創造する能力を何か魔法の力、あるいは黙想の賜物のように思っている人がいます。そう言う方は過去の作品を感嘆の意を持って扱う代わりに、自分の言葉までもそのように扱う傾向があります。「どうしてこのようにしたのかは私には分かりません。何処からかそれがやって来たのです。」

 

このような態度は、他の芸術家に、自分たちは何かしら、菩薩か芸術の神様の生まれ変わりでもあるかの様に考えさせない限りは、害のあるものではありません。自分は芸術家だから特別で、普通の決まり事は自分には当てはまらないと考えている芸術家があまりにも多くいます。もし、普通の人が家族を捨てたり、子供に言葉による虐待をすると、最低の生き物ですが、芸術家がそのような事をすると、「自分のスペースが必要なんだ」と言う事になります。普通の人が麻薬をしたり、泥酔するまで酔っぱらうと、中毒者、アルコール依存症となりますが、芸術家がそうなると、彼は「苦しんでいるんだ」となります。

 

この視点について、人々はフォークナーやヘミングウェイ、あるいはフィッツジェラルドを指して「観てご覧なさい、彼はとても才能があった、そしてどれだけ飲んだくれたかをご覧なさい。彼は結局は荒れ果てて、自殺に追いやられた。」人々が見落としがちなのは、フォークナーはアルコール依存症があったにもかかわらず、あれだけのすばらしい作品を作り上げたのであって、生身の人間の自滅的な誘惑と戦いながら、彼の大人の部分がそれを作り上げたのだと言う事です。ヘミングウェイの創造的な部分が、銃の引き金を引いたのでもありません。肉体を制する事が出来ていたならば、どれ程、彼らの作品がより良いものになっていた事でしょう? 神の律法は自然の法律であり、芸術家であっても、弱さや恐れ、悪からの影響も、引力から影響を受けると同じ様に受けます。主と律法は人を選り好みしませんので、芸術家といえども特別なケースはない訳です。

 

芸術家は神聖なものとの神秘的なつながりは、全て霊に与えられている、キリストの購いによって与えられたものと、癒し主から与えられる確信の他には何もありません。

 

6、六つ目の広い迷い道は、内容よりもスタイルに対する忠誠心です。最近私はノースカロライナ大学グリーンズボロキャンパスのMFA執筆コースをとっている若い生徒と話をしていた時、彼はこんな事を言いました。(実は私は彼が言っている事があまりにも信じられなかったので、冗談を言っているのではないかとかなり注意していたのですが、彼は実のところ、全霊で次の事を意味していたのです。)「僕はもっと多くの人が、本当に大切なのは筆記スタイルだと言う事に気がついたら良いのにと思うよ。何について書くかなんて、良い文章を書ける様になるまでは考えても無駄だよ。」

 

この態度こそが、この数十年間の間にこんなに沢山のスタイリッシュではあるが中身の無い芸術を生み出したのです。最近、男の人がもう一人の人の口に排尿している写真について、これは「光と陰の勉強」としてのみ受け取られるべきだと言う評論をお聞きになってあぜんとされた方も多いと思います。観衆、芸術家の両方がこの主張に憤慨しました。光と陰も確かにこの芸術家の手法であったかもしれませんが、被写体が何であるかは問題でないと思い込む程、この芸術家も馬鹿ではないと思います。異常性を驚きであるとか、美的感覚を喜ばせる風に使う事で、あるいは、あきれさせる事で聴衆の記憶の中に自分の芸術を植え込む事で、彼はこの世を変えました。しかし、実は被写体こそが、芸術家にとって本当は一番大切なものなのです。それを忘れてはなりません。もし、他に誰からもそれを学ばないのならば、せめてメイプルソープからそれを学んでください。芸術はそれが何かについてである時のみ、世の中を変える力があるのです。

 

テクニックは絶対に完全にはなりません。絶対にです。しかし、あなたのメッセージが力強く、真実である時に限り、テクニックは十分である必要があり、スタイル上の失敗も許されるのです。一方、あなたのスタイルがどれほど優雅なものであっても、作品に中身が無く、現実の世界に置いて意味が無いものであれば、あなたは忘れられるべきですし、必ず、忘れられてしまう事をお約束します。

 

7、七つ目の迷い道は永遠に続く思春期です。この誘惑はこんな風に聞こえます。「この作品は扶助教会の姉妹達を、歯が抜けるくらいびっくりさせるぞ」 私はこれを若くてナイーブな末日聖徒の歴史家の間で、「なるほど症候群」と呼んでいます。日曜学校で読んだ事の無かった事を勉強や研究の中で初めて発見した時、彼らは「なるほど」と感嘆します。そして、新しく発見した「モルモニズムの真実」について、急いで皆に教えに廻ります。そして、彼らの間違いを指摘しようものなら、彼らは、それはあなたがまだ「真実と向き合う準備ができていない」からだと言うのです。

 

それはまさに、両親を限りなくいらつかせるたぐいのショックを、他の何の理由でもなく、ただ両親をいらつかせる為だけに与える思春期の子供の欲望と何の違いもありません。私達は皆そう言った事をしてきました。それは、思春期の一部です。それは、自分のアイデンティティーを見つける為に、一度自分が育った社会から離脱する事の一部です。しかし、最終的には成長してゆくべきです。

 

私達は、自分が何者になるべきかを発見できるまで、思春期を柔軟性のある環境の中で、まだ、自我が不安定な時期に過ごす様になっています。それが終わった時点で私達は大人になるべきなのです。

 

大人というのは、社会に対して自主的に何らかの約束をし、それを決して破らない人の事をいいます。結婚をし、子供を持つ時に、そういった約束をします。大勢の人がその約束を破りますが、それを誇りに思ってはいけません。教会に入る時にする約束もその部類です。私達の多くは若い時にその約束をしますので、歳をとってから、もう一度その約束をし直す必要もあります。しかし、約束はあるべきもので、それでなくてはあなたは大人とは言えません。

 

その約束というのは、問題を見つけたとき、観衆をその問題で刺し、相手が叫んでいるうちに、上機嫌で傷口に塩をこすりつける様なまねをしないと言う事です。反対に、その問題について注意深く研究し、その学んだ事柄を相手を傷つける事を最小限にとどめながら、そして、出来るならば、社会が以前にもまして、堅固になり、強められる様な方法で、伝える様にしなければなりません。

 

実際のところ、あなたが事実を伝える時、観衆のうちいくらかの人は、常に何らかのショックを受けます。つまり、わざわざ事実をおいしそうに見せる工作などしなくてもいいのです。実際、どうせなら、反対方向、つまり、衝撃を和らげ、観衆があなたの声に耳を傾け続けられる様な努力をするべきです。彼らを優しく導き、肉を勧める前に牛乳を勧めなければなりません。

 

キリストの教義は厳格でショッキングでした。しかし、彼は寛容に、優しく、愛を持って、人々の理解に応じて彼らの言葉で教えられました。

 

以上が、私が見た末日聖徒の芸術家を崩壊に導く七つの幅広い道です。そして、私達は、ついに川の淵にある大きく広い建物の中の、芸術コミュニティーと呼ばれる、芸術家、評論家、研究家の集まる階にたどり着くのです。例外はありますが、一般的には、ここの人たちは、あなたとあなたの芸術の破滅へと続くその七つの道に進む様に導きます。

 

彼らは、すでに手中にとった、死んでしまった芸術家をまねるか、あるいは少なくとも彼らについて真剣に勉強する様に奨めます。そのような芸術家が達成した事のお話を既に準備しています。このような研究され切った芸術家達は馴らされており、既に亡くなっているので、馬鹿げた評論にも、抗議をする事が出来ません。そして、もし、芸術界がそのような死んだ芸術家をまねする事が良い事であると、あなたに信じさせてしまったとしたら、それは、彼らが、あなたをも手馴してしまった事になります。

 

何者でもなく、彼ら自身が、それを名誉あるものとさせているのですから、彼らはキャリア主義を勧めるでしょう。もしあなたの生死が彼らの賞に左右されるのであれば、それはあなたが、彼らにどっぷりと寄りかかり、彼らが決める、芸術とは何かと言う意見に賛同する事になるでしょう。

 

彼らはあたかもお金を嫌うかの様に振る舞い、お金儲けをする人をことごとく妥協していると言うでしょう。しかしながら、実のところ、彼らの一番愛しているもの、そして、一番感銘を受けるのは、お金なのです。私は個人的な経験からしかお話しできません。(本当は他人の経験からもお話しはできるのですが、自分の経験からのみお話しいたしましょう。)

 

サイエンスフィクションは言語学やまじめな文学の間では、もちろん真剣に受け止められていません。しかし、その内輪での私の作品に対する受け入れ体勢が、ベストセラーリストに載ったり、数々の賞を頂いてから、どれだけ変わったかを見られると、驚かれると思います。私は以前に比べて特に執筆が上達した訳でもありませんが、少しお金を儲けたと言うだけで、本質的に私の芸術を拒絶している人からも受ける敬意には、驚くべきものがあります。そのような人たちのそぶりを信用しては行けません。彼らはお金儲けさえすればすごいと言ってくれるのです。

 

エリート主義は彼らの活力源です。彼らは高度な大衆芸術よりも世界のエリート芸術の方が本質的に上だと説くでしょう。この考え方は彼らにとってとても心地の良いものなので、彼らはそう信じているのです。お分かりの様に、この理論で行くと、彼らは上達の必要はない事になります。クラブに所属しているだけで、作品がまじめに受け取ってもらえるのです。このような裸の王様達は、お互いに裸であると言う事に薄々気づいてはいるのですが、まだ自分はすばらしい着物を着ていると信じ切っているのです。

 

彼らは、自分達が、役に立つものを作るため、あるいは害のあるものを作ってしまう事を避ける何の努力もする事なく、社会の腹中で寄生虫の様に生きる事か出来るので、芸術家崇拝を奨励します。彼らにとって芸術家は金蔓です。なぜなら、芸術家は「特別」だからです。

 

彼らは表面的な事柄に気を取られます。つまり、既に受け入れられた意見に尾ひれを付けて反響させるだけでいいのですから、深い知恵にまで到達する必要もないのです。

 

彼らは永遠に続く思春期を奨励し、それを実際以上によく見せます。そのせいで、世の中には、彼らの言葉をかりて言うならば、「限られた」家庭生活や仕事から「逃げて自由になる」事を書いた小説、頼りにしている人や必要としている人、責任を持つと約束をした人々を置き去りにしたりする事に栄光を与える小説が山の様にあるのです。今年出版されるその様な本一冊につき、十セントもらえれば・・と思います。どうして芸術界というのはこんなにも、この手の物語に飢えているのでしょうか? それは芸術界外ならば許されない様な行いを、自分たちが行う言い訳になるからです。

 

芸術界は、少なくとも無意識のうちにも、自分たちは社会として空っぽであると言う事に気がついているので、あなたに才能があれば、彼らに加わる様にと熱心に説得するでしょう。あなたの才能と共に彼らに加わるならば、それは彼らを価値のあるものだと認める事になります。彼らは認められているのはあなただと思わせようとするでしょうが、それは違います。それは彼らの方です。

 

そして、もし彼らを拒否するならば、彼らの気持ちを傷つける事になります。そして、傷ついた子供の様に、その大きくて広い建物のどの階にもいる人々の様に、嘲笑したり、笑い者にしたり、軽蔑したりして、彼らに賛同する風に仕向けようとします。もし、彼らに恥ずかしいと思わされる事に甘んじてしまえば、それは、その幅広い迷い道へ迷い込む事になります。あなたの才能はゴミの川の中にまぎれて失われてしまいます。

 

そして、警告しておかなければ行けない事は、芸術界は「向こうの方」の「世の中」にだけあるのではなく、それは、この末日聖徒の社会内にも存在します。ただし、これは末日聖徒の芸術家全てについて申し上げているのではありませんので、どうか誤解なさらないでください。しかし、末日聖徒芸術界に属すると自負する人々は、教会からではなく、この世から基本的な価値を見いだしています。彼らは、もしあなたが末日聖徒の為に芸術を作り出そうとするならば、それを嘲笑するでしょう。あなたの作品がエリート主義で、ショッキングで、アンチ大衆芸術であれば、尊敬するでしょう。かれらは、もし、大衆が愛するならば、それは対した事のない芸術に違いないと言う推測から出発するのです。

 

彼らの意見、つまり、大衆受けする、イコールたいしたものではないと言う意見は、表面的には正しいのです。しかし、たいした事のないものだから、大衆が好み、エリート主義のものは優れているから嫌うと言う訳事ではないのです。大衆は大した事のないものでも、少なくともそれは彼らに語りかけているから好むのです。彼らは芸術家が提供さえすれば、もっと優秀な作品を好むでしょう。

 

ここで、短かい例を挙げましょう。

 

シャーリー・シーリー。どれくらいの方が彼女の名前をご存知でしょうか? あっ、少し手があがりましたね、殆どが女性ですね。まあ、これが本の世界の真実でもあるのですが・・。ご存じないかもしれませんが、1970年代はモルモン小説はモルモンの為に書かれたものではありませんでした。モルモン小説はあるにはありましたが、たいていはモルモンでない人々に的が絞られており、モルモンの社会がどんなに堕落した、邪悪な、ひどく、忌まわしく、そして馬鹿げたものであるかを見せる為に作られた、攻撃的なフィクションでした。人気のあった本で、ドン・マーシャルの「ラメッジセール (売れ残り品セール)」は、とっておきの例外として挙げることができるでしょう。しかし、モルモンフィクションはちゃんとした出版物のカテゴリーとして存在した事はありませんでした。デサレトブックもブッククラフトもモルモンフィクションは売れないと分かっていたので、殆ど出版はしませんでした。

 

そして、シャーリー・シーリーが、正直に言わせていただくと、20ページ以上はとても読む事が出来ない本を出したのです。しかし、これは個人的な趣味ですので・・。その本は明らかに、私の為に書かれたものではありませんでした。私はその本の自然な聴衆にはなれませんでした。もっとも、沢山の末日聖徒は聴取でしたけれど・・。

 

しかし、前もってそれを分かっていた人はいませんでした。末日聖徒市場の出版社は一社としてその作品に手を付ける事はありませんでしたし、編集者達も一人として、特にその本が好きだった方もいなかったのでないかと思います。ニューヨークの出版社は何処も手を付けない事は確かでした。

 

しかし、シャーリーは、彼女の作品を信じ、前向きなモルモンフィクションを待っている聴衆が必ずいると信じた、善良な人々の助けを得て、その壁を破ったのです。それはセブンティーズミッションブックストアーにより出版され、驚く事に飛ぶ様に売れたのです。あなたの意見がどうであれ、シャーリー・シーリーの初めての小説は、モルモンフィクションを、もうけのある市販のカテゴリーにしたのです。彼女の本のおかげで、末日聖徒はいつでも本屋へ行き、いろんな作家によるいろんな種類の本を見つける事が出来る様になったのです。

 

しかし、「Beyond This Moment」が輝かしい成功を収めている時、人々はこの最初に売り出された本があまり良く書けていなかったので、モルモンの聴衆に売る為にはあまり上手に書いてはいけないという勘違いをしてしまったのです。

 

これは事実ではありません。これから学ばなくてはならなかった教訓は、 作者の短所を大目に見てでも、人々は、信仰のある強い末日聖徒に向けて語りかけるフィクションを読みたがっていたのだと言う事実です。しかし、モルモンフィクションは売れないと信じていた出版社は、大した根拠もなしに、今度は、売れるモルモンフィクションは、俗にいう「女性本」の様なタイプのものでしかないと信じる様になりました。芸術の家の全てのドアが開けられるマスター・キーは存在しない様です。一つのドアは開けられても、次のドアを開けるのにまた、苦労をしなくてはなりません。

 

私は自分の口のあるところにお金を入れてきました。内輪のLDSフィクションでも、噛み付く様な、感情のこもったエンターテイメントに飢えた聴衆が必ずいるという高い賭けをしました。そして、私はモルモン聴衆に対するジェーン・オースチンの様な存在を作るべく、キャサリン・H・キッドの「Paradise Vue」を出版しました。この小説は、ジェーン・オースチンや、マーク・トウェーン、そして、チャールズ・ディケンズが、彼らの人々についてそうした様に、モルモン社会の嫌なところやうぬぼれがあまりにも沢山載っていて、メジャーのLDSの出版社からはまず出版されないタイプのものでした。それは、LDSの信者や価値観、教義に対して、前向きな小説だったので、モルモンを批判する様な作品を追いかけるタイプの出版社にも出されないものでした。

 

その本の反響を見る限りでは、私の判断は正しかったようです。またもや聴衆が欲しがっていたにもかかわらず、誰も与えなかった種類のフィクションがあったのです。読者から頂く感想はこのような感じです 「やっと、読んでよかったと思えるモルモン小説に出会えました。」 もちろん既に出版されているモルモン小説に満足されている方々もいらっしゃると思います。しかし、私は、既に需要の満たされた、そのような方々の為に出版社を作るつもりではありませんでした。ここで、私が申し上げているのは、人々が飢えている時に、満足させると言う事は、質の悪い芸術を作ると言う事ではないという事です。それは、彼らが、自分たちに的が絞られていると気づける、すばらしい芸術、彼らが理解し、信じ、愛する事の出来る芸術を作り上げると言う事です。そして、彼らはその違いに必ず気がつきます。彼らは大変な洞察力を持っています。大衆はゴミの様な芸術しか求めていないと言う人は誰でも、真っ白い高い建物からではなく、違った種類の建物の中から、語りかけているのです。

 

それでは、どのようにして、大きくて広い建物から来る、浸透性の高い影響を、教会の中と外両方で、防ぐ事が出来るでしょうか? そのような影響から、一人の芸術家として、どのように免疫を作る事が出来るでしょうか?

 

初めに、言える事は、あなたは強くなくてはなりません。それには強靭さが求められます。

 

二番目に、キリストについて決して恥じる心を持ってはいけないと言う事を覚えておかなくてはなりません。もし、心の中で、本当に自分が彼に仕え、従っていると知っているならば、どのような嘲笑や批判にあっても、心に平安があるでしょう。

 

三番目に、普通の、一般の末日聖徒のワードで自分の生活を確立する事です。芸術家でない人たちと本当の友達になりなさい。彼らは、あなたの才能より遥かに大切な理由であなたを愛してくれる事でしょう。彼らは、あなたが失敗しても、友達でいてくれます。そして、そのような芸術家でない人々を念頭に作品を作る時、彼らは、あなたの妥協の無い真実を出来る限り多くの人々にどのようにして伝えれば良いかを教えてくれるでしょう。更に、彼らは本当の人生とは何かを教えてくれるので、あなたの作品がいつも、芸術もしくは芸術家についてのものではなくなってくるでしょう。

 

少し突飛な助言を差し上げたいと思います。モルモン芸術を実践する為に、魂を失わずにモルモンの芸術家になる為に、出来る事なら、ユタ州を出られる事をお奨めします。私はユタ州の中と外両方で活動した経験がありますが、外での方が、良い作品を作りやすかったと言う事をお伝えしたいと思います。末日聖徒の芸術家が少ないところに行った方が簡単です。私は芸術家自体の存在が珍しいところにさえ行きました。確かに言える事は、私の今住んでいるノースカロライナ州グリーンズボロ市は、決して、小説家のメッカとは言えません。

 

末日聖徒として、全てが含まれるワードに集える地域に住む方が良い様に思います。ユタでは、ワードの人は、自分の家の近所だけの経済環境に似通った人達だけになりがちです。他のところに行くと、たいていの場合、裕福な人も、貧乏な人も、ホワイトカラーも、ブルーカラーも寄せ集まったワードを見つける事が出来ます。信じていただきたい事は、教会はその方が健康的だと言う事です。

 

芸術家として、最も大切な事は、聖徒として、召しを果たしてくれる人に、より飢えているところに行くと言う事です。ユタ州オーレム市に住んでいた頃、ワードの指導者達は私をどう扱ったら良いのか決めかねていた様です。何ヶ月も召しなしで待ったあげく、やっと頂いたのが、プライマリーの9歳児のクラスの教師でした。私はその召しがとても好きでしたが、それを得れたのも、既に、いくつかの召しを抱えていた妻に、その召しが来たので、それを私にくれる様にお願いしてやっともらえたのです!

 

子供達はとてもすばらしかったですし、今でも、教会で得た最高の経験の中の一つとして、記憶に残っています。しかし、ここで大切なのは、私がお願いするまで、私にどんな召しを与えてよいか分からずにいたと言う事です。

 

ユタではあまりにも多くの教会員がいるものですから、変わり者は無視しても良いという風潮があるのです。(1980年当時、私は民主主義者であり、それはとても複雑な状況だったのです。)しかし、ノースカロライナ州グリーンズボロ市でも、その前に住んでいた、インディアナ州サウスベンド市でも、私には召しが与えられました。なぜでしょう?それは、召しを信仰を持って果たす末日聖徒があまりいない地域では、ワードは全ての種類の人を輪の中に入れてくれ、そして、人を識別する時に、違った種類の、もっと良いスタンダードを使う様になります。つまり、もっと福音と調和したスタンダードを使う様になるのです。モルモンと言う狭い通路の外では、信仰深い末日聖徒は誰一人として、使い捨てが出来る存在として見られる事はありません。人々は私を変わり者だと思うかもしれません。実際私は変わり者です。しかし、私が召しをきちんと果たす時、彼らは私を末日聖徒の仲間として、受け入れてくれます。ここでは決してそうはなれなかったのですが、私は今住んでいるところでは、教会生活の一部として受け入れられています。

 

もしこのモルモン社会にとどまっても、実際のところ、大勢の方がそうなさると思いますが、本当のモルモンの生活を送れる様にする方法があります。

 

気味悪さ、不思議さを自分の中で育ててはいけません。私の言葉を信じてください。あなたは努力しないでも、不可思議な存在になるのです。努めて普通に見える様にしてください。そうする事によって、周りに良い信号を発信する事が出来ます。「あなたと一緒にいたいのです」と言うメッセージを送ることができます。そして、もちろん芸術家肌の人たちには反対のメッセージを送ります、そしてそれも良い事です。

 

何に対しても、特に自分の理解できない事に対して、決して冷笑する様な態度をとってはなりません。もし、何の為に人々が「馬鹿げた、センチなモルモンロマンス」を読んでいるのか理解に苦しむ時、間違ってもそれを批判したりしてはいけません。どのような飢えがその芸術によって満たされているかをあなたは知らないのです。言う事の出来るたった一つの事実は、あなたはその作品の聴衆の一人ではないと言う事のみです。

 

何よりも、モルモンの人たちを見て、特になんでそんな事をするんだと言う様な事をしているのを見る時に、あなたは、彼ら、つまり私達の一員であるという風に考えなくてはなりません。ですから、「ほら、あの人たちあんな事をしているよ。」と言う風に言うのではなく、心の中で、「私達はどうしてこんなおかしい事を繰り替えすのだろう?」と言い直す必要があります。

 

これはただの言葉の問題でも、とるに足りない違いでもありません。あなたは、このモルモン社会があなたが良いと思わない事をしている時でも、常に自分はその社会の一員なのだと言う事を覚えておく必要があります。「私達」と言う感覚の中に、常に教会が含まれていなくてはなりません。

 

そして、「私」と言う感覚の中には、常に救い主が含まれている必要があります。それが、キリストの御名を受けると言う事です。彼は決してあなたの作品に署名をする事はありませんが、同様に、あなたの作品の一部になります。そうする事によって、あなたは全ての作品を、心から、祈りのごとく、イエスキリストの御名を通して、捧げる事が出来るのです。

 

 

 

 

 

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