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The Problem of Evil in Fiction - Orson Scott Card

フィクション中の悪の問題

 

BYUで行われた教会150年祭でのモルモン芸術に関するレクチャーシリーズより適用 1980年3月

 

1977年1月、エンザインの副編集長として働いていた際、不活発会員に、結婚を神殿で結び固める様に励ます特集をしました。その記事にマッチした、注意を引きつけるイラストを考えだすのは至難の業でしたが、不活発会員である父親が、同記事を読んでいる絵を起用する事にしました。つまり、その記事には彼の写真が載っており、その手のにも、また彼の写真の載った記事があるという具合です。しかし、一つ問題になったのが、ではどうやって彼が不活発であるという事を表すかという事です。エンザインは、まだ巧妙さという点では有名ではありませんでしたので、私たちはその絵の真ん中に、灰皿の上に置いた、火をつける前のパイプタバコを置くことにしました。もし、それが不活発モルモンを意味しないならば、読者の想像力を真剣に疑うしかないでしょう。

 

悲しいかな、私たちは人々の誤解能力をすっかり読み間違えていました。少数の読者からですが、そのイラストに対する苦情が送られてきたのです。それは大きく3つのカテゴリーに分かれていました。

 

1 「まあ、パイプの絵をエンザインに出して、私たちが見過ごすとでもおもったのでしょう。なんのなんの、しっかり見つけましたよ!」

 

2 『この世でたった一つ、悪を載せない雑誌があると思っていたのに、子供の目の届くすぐそこにパイプの絵が・・・それも、現在の聖典といっても過言でないエンザインの中に!』

 

3 「あんた達は本を印刷する前に見直しというものをしないのかね。60ページの挿絵の真ん中にパイプがあるじゃないか!こんなミスがす通りしているなんて、もっと見直しをしっかりしてもらいたいもんだね!」

 

これらの投書をした人たちは私たちの送らんとしていたメッセージの半分は受け取ってくれていました。それは、彼らはパイプに気がついた、そして、末日聖徒にとってパイプを吸う事は悪い事だという事を知っていたのです。すっかり受け取り損ねられた事は、(パイプという)悪を載せる事で、そういった問題を抱えている人たちの注意をひき、彼らを助けようという、こちらの意図でした。

 

悪を載せる事は必ずしもそれを奨励しているとは限りません。

 

人生の中で最悪の事は基本的に必要なものです

 

芸術の中で、悪が現されるべきか否か、もしくは現されるべきであればどのように現されるべきか、という謎は多くの人の興味をそそります。究極の芸術表現であるポルノグラフィーを地域社会から完全に追い出す為に、人生を費やす人もいます。そうかと思えば、才能を駆使して、芸術の中の悪を探求し理解する事を、生涯の仕事とする人もいます。私は二頭動物です。つまり、オーソドックスなモルモンの家庭に生まれ育ち、末日聖徒の視点からの善悪から逃れる事ができませんし、逃れる気もありません。今日、私は足の先から頭の先までモルモンでして、議題に応じて自分の信念を変える様な事をする気はみじんもありません。しかし、フィクション作家として、自分の作品の中に悪を描く事なく、優秀な作品を作る事は不可能である事を知っています。

 

何度となく、私は、ナイーブだと思われるかもしれないこのような質問を受けてきました(私は彼らの判断を心から尊重しますし、その質問も実はそんなにナイーブなものではないと思います)。「どうしてそんなに暗い物語を書くのですか。人生の良い面をどうして見せないのですか。なぜ、あなたのお話の登場人物はみんな苦しまなければならないのですか。」

 

まさに、なぜでしょう。結局フィクションは事実では「ない」のです。フィクションは『嘘』なのです。登場人物は作り物です。作り物でなくては困りますし、もしそうでなければ訴えられかねません。それでは、どうせ物語を作るなら、どうして楽しいお話をつくらないのでしょう。

 

とても分かりきったその答えは、同時に、とても些細な事です。つまり、幸せな世界で、幸せな人々が、幸せに暮らすお話を書く作家は、長くは生き延びられません。そのような幸せな事を気に留める人など誰もいないのです。悪は本質的にもっと興味をそそるものなのです。悪は売れるのです。

 

「その通り」と答えるのはクロムウェルの復活成功後の英国の聖教徒達です。「人々は悪が舞台の上で再現されるのを観に劇場に足を運んでいるのだ。演劇を全て禁止してしまえば、英国はもっと良い国になるであろう。マクベスと彼の血みどろの犯罪はいっさい禁止する。リア王とその自滅的な狂気も禁止。私たちはキリスト教者の為に世の中を安全にするのだ。」

 

しかし、20分もしないうちに、聖教徒達は劇場から投げ出され、劇場ビジネスは元通り復活されました。人々がそれを望んだのです。そして、私は、彼らが悪い人々だったのでそれを望んだとは決して思っていません。

 

悪は、容赦なく延々と続く善よりも面白いのです。なぜならば、悪の描写のない人生は嘘だからです。フィクションは『作り物』ですが、そのすべてが嘘という訳ではありません。いうならば、作者の嘘の隙間から、彼の真実に対する視点がどうしても浮き出してしまい、もし作者がそれを巧妙にすくいとったとしても、彼の視点の一部は読者と共に残り、読者を変え、形作って行くのです。フィクションの読者は、自分が読んでいるのは作り話である事を十分承知しながらも、真実の幻覚、そして真実自体に固執します。最初は真実の幻覚です。なぜなら、読者が、作者によってコントロールされた、主人公のおもしろい人生経験を誘導されるとき、読者はその物語の表面上の詳細と、自分の人生を通して知っている現実との間で、何らかの通信を強く求めるのです。これは本当にそうであると思われるはずです。そして、第二に、真実の本質。なぜならば、作者が、どんなに何回にも渡ってわざと嘘をついても、彼自身の奥底にある善と悪に関する信条が、作品に現れる事は避けられません。道徳的に中立の立場に立ったフィクションを書くのは不可能なのです。

 

真実の幻覚も、避けようのない真実の本質も、(表されるには)両方ともフィクションの中は悪の存在が必要です。人間は意識のはっきりして来る頃から、すでに、世の中は必ずしも心地の良いところではない事に気がつきます。私の息子、ジェフェリーは、もうすぐ二歳になるのですが、靴は必ずしも毎回正しい側に揃わないという苦い事実に直面しています。ジェロ(アメリカのゼリー菓子)をわざと髪の毛になすり付けたら、昼食は突然終わりになってしまうという、ひどく苦痛な発見にすすり泣きもしました。

 

二日前には、どんなに激しく泣き叫んでも、お父さんとお母さんは雷を遠ざけてくれませんでした。中でも、最も残酷な事実は、プライマリーの子供達は時々意味もなく、彼を叩いたり、押し倒したりするのです。

 

痛感な教訓はほんの始まりにすぎません。私たちは歳をとるにつれて、どんなに愛していていても、人はいつか死んでいく事を学びます。信頼していた友達が裏切ることもあります。愛する家族が私たちを傷つける事もあります。傷つけた事のない人たちが、私たちに対して犯罪を犯す事もあります。

 

しかしながら、私たちは必ずしもいつも被害者ではありません。時には自分自身が悪の加害者であるという、とんでもない発見をする事もあります。世の中は、たいていの場合醜くいもので、自分のちょっとした行為が、他人にとって、そして自分にとっても、世の中をもっと暗くしてしまっているという発見をする時、更に醜く感じるものです。

 

自然、他の人々、そして私たち自身の欲望が陰謀して、自らの人生に苦悩をもたらすこともあります。誰もそれから守られている人はありません。とても善良なので悪と接触を持った事がないという人など一人もいないのです。

 

そして、もしそれが人生なら、フィクション作家は、どうして正直に登場人物の人生を、悪の描写なく書けるでしょうか。

 

真実の幻覚は悪の存在なしにはありえませ。そうでなければ、読者は彼の登場人物を信じられなくなり、本を投げ出してしまるからです。

 

そして、内側から来る真実の実質への要求が、悪の存在を無くてはならないものとします。なぜなら、作者が登場人物の苦しみに対する葛藤を書かないならば、他に何が書けるでしょうか。もし、悪や苦しみや悲しみなしに生きるすべを知っているのなら、書く事などやめて、それに従って暮らせばよいのです。しかし作者は、いえ、第三者名を使うのはやめましょう、『私は』、悪に接触せずに生きるすべを知りません。ですから、私が書く人物も悪に直面します。その他の方法で書く事は不可能です。

 

もちろん、イギリスのクロムウェルのストライプを掲げた聖教徒は、それに対する答えを持っていました。もし、他に書く方法がないのなら、書くのをやめてしまえ。もし、小説家達が、世の中の悪の総数をあげる事しかしないのならば、皆の為にも書くのを一切やめさせよう!というものでした。

 

しかしそれは不可能です。既に試みられもしました。ソビエト連邦の共産主義者達が何年も続けました。しかし、最も暗い時代においても、命をかけて良いフィクションを読み、人々に広めた人たちがいました。ロシアの地下出版システムの中で、作者は誠の嘘の箱詰(フィクション)を作り、権力者に原稿を渡して彼を破滅させてしまう事だってできる友達にそれを渡しました。友達は、(彼を突き出す)代わりに、苦心してそれをタイプし(ゼロックスコピー機はその頃存在しませんでしたので)、原稿とコピーと両方を他の友達に渡しました。捕まってしまったかもしれません。牢屋に入れられて、愛する人々から引き離され、何十年間奴隷として働かされ、拷問を受け、あげくの果てには殺される事になったかもしれないのです。しかし、彼らは読み、タイプし、そしてそれを他の人に広めていったのです。

 

もちろん、あまり多くの人はこの動きに加わりませんでした。合衆国の人々も、避けれるならば大半は読書をしません。世の読書家の殆どを、嵐の様にさらっていった過去最大のベストセラーでも、一千万冊以上を売った事がありません。私たちの総人口は二億二千万ですから、それは何とも情けない、4.5%にしかすぎません。しかもこれはベストセラーの話です。私の最近の出版したペーパーバックの本は四万冊くらいしか売れませんでしたが、これは至って普通、というより平均より良いくらいです。私の出した最近のハードカバーの本は二千冊しか売れませんでした。ちょっと考えてみてください、あれほど感情的にのめり込んで書いたものが、全アメリカ人口の1パーセントのたった千分の一にしか読まれていないのです。こんなに国民あげて本を読まない国の、いったい誰が検閲権制度を必要とするでしょうか。

 

それでも、そんなアメリカの中ですら、食べるよりも読む事を好む人たちがいるのです。そして、彼らがフィクションから得ている何かは、彼らにとって、とても必要なものなのです。

 

そして、自分の作品を出版してくれる出版社が見つからない作家は、20ページ程読んだ後輪ゴムの下に却下スリップをはさんで原稿を送り返してくる様な、安月給とりの、洞察力に乏しい、半分寝た様な読者にしか読まれなくとも、原稿を書き続けます。

 

フィクションの必要性は殆ど世界共通です。文学が生まれる以前の社会では、講談師が尊敬され愛されました。聖典の多くが、悪人と善人に関する話を列挙する事に捧げられています。私たちはそれらについて歌い、踊り、劇にして演じ、映画を作ります。ちょっとしたテレビ番組のシリーズでさえもそのような要求を満たしています。 「ラバーン&シャーリー」は、 最も基本的なレベルで、知能的に未発達な人が、世知辛い世の中で幸せを見つける為に苦労をするお話ではありませんか。

 

現実は逃避者のフィクションからの逃げ場である

 

皆さんは現実逃避フィクションについてお聞きになった事があると思います。それは神話であり、実際には基盤がほとんどありません。一般的なイメージとしては、23歳の主婦が、3人の小さな子供に足首を噛まれながら、片手にアイロンを持ち、もう一方の手でペーペーバックを顔の真ん前に固定しながら読みふけっていると言ったところです。カバーには彼女と同じくらいの歳の女の人が、どんよりと曇り、嵐、もしくはもっと悪いものが降ってきそうな空の下を、暗い不気味の建物から走って逃げているシーンが載っています。もちろん、と、ステレオタイプの(そういった本の)信者達は言うでしょう。彼女は単調な生活からもっと遥かに面白いフィクションの世界に逃避しているのよ。

 

逃避?私はそうとは思いません。あなたはそのようなゴシック小説の中身をご存知ですか。私はたまにしかできないのですが、もしあなたが主人公に自分を当てはめる事ができたなら、極度の緊張、恐怖、不安、疑惑、苦痛そして裏切りを経験するでしょう。最終的にはハッピーエンドで終わり、読者はやっとほっとする事が出来ます、なぜならば、読んでいる間、読者はへとへとに疲れてしまう程の経験をくぐるからです。

 

サイエンスフィクションも現実逃避の焼き印をつけられています。そのようなナンセンスを信じる方は、きっと『デューン 砂の惑星』の、とてつもなく価値のある世界の後見者でありながら、何をしても逃れる事の出来ない、とんでもない運命を発見してしまう、悩めるポール・マッディブの気持ちなど、みじんも分からない方なのでしょう。ウエスタンやハーレクイーンロマンス、ミステリーは主人公に入り込んでしまっいる読者達にとっては現実逃避でも何でもありません。私にとってみれば、厳格な顔立ちのハンサムカウボーイが、町中の問題を全部解決して夕日の中へ馬とともに消えてゆくというのは、笑ってしまうくらい信じがたいものです。しかし、その類のジャンルを全て現実逃避であり、考慮する価値のないものとしてしまう事はできません。私が言えるのは、自分は、その種のフィクションを好むグループには属さないということです。なぜなら、そういったものを定期的に買う人たちは、厳格な顔立ちのハンサムボーイの事に興味があり、主人公の経験は彼らの経験であり、主人公の恐怖は彼らの恐怖、そして、最終的に主人公の勝利は彼らの勝利だからです。

 

フィクションの魅力、そして究極的には、全ての講談芸術はカタルシス(浄化法)なのです。主人公が、観衆の身代わりになるのです。芸術家は観衆の経験を形作りますが、究極的には観衆自身がその経験を個人的に、感情的に生きるのです。何百万人の人がテレビの前に座っても、何百人の人が演劇を観に来ても、一人一人が、親密な、個人的な経験をしているのです。それは、まったく全てが作者の作ったものではありません。それは常に、主人公の経験と観衆の経験のコンビネーションなのです。

 

ですから、ある作品はある人に、他の人に比べてもっと魅力的に移るのです。最近大好きなジョン・クロウリーの1979年の小説『エンジン・サマー』を友達にあげました(私は彼の好みをとても尊敬しています)。しかし彼はその本が嫌いで、これまで読んだ本の中で一番退屈な本だと思ったのです。そして、それが短い本だった事をなによりと思いました。しかし、私にとっては、それは今までに読んだ中で最も完全な本の一つでした。そして、既に私の人生の一部となり、自分を潤す為に何回も訪れ、何らかの決心をする時に知恵を得るために訪れる、記憶の井戸となっているのです。どうして彼はそのように、そして私は反対にその本をとったのでしょうか。それは私たちはお互い違った人間だから、ただそれだけです。ですから、私が同情できた主人公は、彼にとってはまるで冷たかったのです。私を物語の中に招いてくれた著述は、彼にとっては厚い壁だったのです。

 

フィクションは現実からの逃避ではありません。フィクションは単に、有限の境界線、つまり両表紙の間で繰り広げられる、もう一つの現実なのです。人生とは違って、それには始まりと終わりがあります。私たちは本を閉じて、まとめをする事ができるのです。人生から学ぶより、フィクションから学ぶ方が簡単です。私たちはもっと安全な現実の中にいて、ほんの少しの事を学ぶ代わりに、フィクションの中で、沢山の人生を生き、沢山の事を学ぶ事ができるので、フィクションは大勢の人にとって不可欠なのです。

 

しかし、これら全ては、読者の、自分を小説もしくは物語にあてはめる事のできる能力にかかっています。読者自身の頭の中に現実の幻覚が築かれなくてはなりません。その、クリエイティブな創作に加わろうとする意欲、もしくは加わる事のできる能力がない読者は、作者が提供しようとしているものを受け取る事は『できません』。作者の創造物の中で分ちあう能力は練習によって上達します。文学を教える教師は何度もそれを目にします。まれにしか見ないシンプルなフィクションを書くナンシー・ドルーを卒業した若い人たちは、次第にアガサ・クリスティーのような単純な作品から、ロス・マクドナルドやジョン・レ・カレーのような、更に複雑な作品まで、更に優秀なミステリー作家の作品を楽しめる様になります。突然、ジョン・アップダイクやジョン・フォウルスのような、もっと難しい作家へと驚きの飛躍をなしとげ、そして、そこからは実にすばらしい作品へと喜びに満ちて飛び込んでゆきます。そして、いつしか、『隠された階段』、(これは私が8歳だった時、ナンシー・ドルーの中で最も好きな本だったので例に出しました)、もしくは、キャロリン・キーンの有名な作品集の中の一つを手にし、読み始めます。それははっきりいてゴミのようなものです。全く読めたものではありません!第二章に入いる頃にはネッド・ニッカーソンの首を絞めたくなります!60ページにかかる頃には、ナンシー・ドルーがどろんこの水たまりにでもはまって、髪の毛だけでも泥だらけになればいいのになどと願うでしょう。そして終わる事には、あなたは止めどなく笑い転げているか、本のページを一枚ずつ破りながら、儀式的にそれを破壊しているかのどちらかでしょう。

 

しかし、それは作品の質が悪くなったからではありません。単に読者が上達したのです。最高のフィクションを受け止めるには、何年もにおよぶ、思考の域を延ばす読書が必要です。練習不足の、あるいは経験の浅い読者には、何が起こっているか理解する事ができません。作者はその違いについて分かっていないなどとは思わないでください。マリオ・プゾーはかなり高度な、大変好評な評価を得たけれども各7冊ずつしか売れなかった本を二冊書きました。(もちろん、ここではちょっと数字は極端に書いていますが)そして彼はとんでもないと思ったのです。彼には養わなくてはならない家族がいました。そこで、わざとゴミの様な作品「ゴッド・ファーザー」を書きました。そして、なんとその作品は歴史を作りました。なぜならば、それは、彼の、より良い作品を読むには、訓練と願望に欠けた、もっと多くの観衆に手が届くものだったからです。ジョン・アービングの『ガープの世界』も同じ歴史を繰り返しているのではないかと、私は推測しています。ただ、後者はかなりそれに気を使いながら、もう少しスタイリッシュに作られている様に思います。(そして、私はたまたまそれらの本は、彼らのもっとシリアスな作品よりも良い作品だと思っているのです)

 

私の申し上げたいのは、読書をしない人々は、手に取る少数の本が何を言っているのか理解する事ができないという事です。読書家でさえも、単に、自分たちの必要や欲望を満たすものでない書物を受け取る事ができない事が多々あります。フィクションの作品の価値を判断する一般的なスタンダードはありません。

 

どの悪が良い悪なのでしょう?

 

周りに廻りましたが、エンザインに載ったパイプを誤解してしまった人たちの話に戻りましょう。彼らはパイプに気がつき、パイプはモルモンにとってよいものではない事を知っていたのです。彼らが理解できなかったのは、どうしてパイプがそこに載っていたかという事です。

 

フィクションで悪を扱う時も同じ様な問題にぶつかります。ポルノに犯された人たちの多くは、本屋に行き、聞いた事のある本、あるいは、特にけばけばしい表紙の本を買い求め、読み始めます。彼らは文字が形どる言葉を、問題なく理解する事が出来ます。作者がいつセックス、暴力、 又は、子供達が声に出すものなら思わず彼らの口を手で覆うであろう4文字言葉について語っているか分かっています。しかし、パイプの挿絵の背後に隠された道徳的なメッセージが分からなかったエンザインの数人の読者のように、彼らはフィクションを読む時、何が起こっているか、本当に単純に理解できないのです。彼らには邪悪な本と悪を載せた良い本の見分けがつかないのです。そして、最終的にフィクションは全て悪を載せているので、善良な、しかしフィクションの観点から言うと文字の読めない批評家は、読む本全てがすこぶる悪に満ちていると恐れおののき、全て禁止にされるべきだ、となってしまうのです。

 

ですから、近代の自称批評家達は、マーク・トウェインの全作品の内、『トムソーヤ』だけを厳しい警告を載せると言う条件付きでなら、国公立の学校におきましょうなどという推薦をする様な馬鹿げた事をするのです。『王子と乞食』を禁止するですって?あなたはその本の中身をご存知なのですか? だってその中には自分たちの苦悩を社会制度のせいにする犯罪者がいるじゃないですか。そして、その本は罪を正当に裁かれた犯罪人を同情する様に教えています!それでは、ハックルベリーフィンはどうでしょうか? もしあれが社会に対する反抗の線路でなければ、他に何がそうであるか私には分かりかねます! あの忌々しいNから始まる単語が毎ページに登場するのは言うまでもありませんが・・・という具合です。

 

もしあなたが本の全体的な意図に関して誤解を招き、意味を違った風にとろうと固く決心しているのなら、そうできない本は考えつきません。私は二人の兄弟が両親の海船を乗っ取り、弟を縛り付けて殺すぞと脅迫し、船内の全員を恐怖に陥れ、船が沈んでしまう寸前になるまで酒盛りのばか騒ぎをする本を知っています。その同じ本の中では、女性や子供達が生きたまま炎の中に投げ入れられ、血みどろの戦いの中では、正義側の一人が敵の頭を切り取り、私たちはそれを応援する事を期待されます。また、女の人が風俗的な踊りで男の人の性欲をくすぐり、王を殺させました。そして、それでもまだ十分でないならば、同じ著者の他の作品では、人間の生け贄に深入りし、マフィアのような組織を作り、人殺しをし、裁かれずにのうのうと生きている男が出てきます。事実上悪の青写真です。

 

ここにいる方の一人でもこの本を禁止する事を防ぐ為に、BYUで昼食に二年間ぐらい出かけていらっしゃって、今かえってこられた方々に申し上げますが、私が今ご説明しておりました本は、モルモン書と高価なる真珠です。

 

私は全ての本は悪でないと申し上げているのでしょうか。出版の自由と表現の自由は全てを守るのでしょうか。

 

そうではなくて、私の申し上げているのは、悪は存在し、悪は存在するということです。もし語義上の不合理をお許しいただけるなら、良い悪と、悪い悪と、中間の悪が存在します。

 

不定詞を解体する事を強いられる著者として、今私はあえて、絶対的存在を解体する事に挑んでみたいと思います。フィクションに関連する悪は全部で3つあります。

 

フィクション内で描写される悪

 

フィクション内で奨励される悪

 

フィクション内で実現される悪

 

類比させ、事を明確にする為に、表現の自由の基本を振り返ってみましょう。表現の自由は明らかに悪について語る権利も含んでいます。教会の中央幹部は、共産政治の悪から幼児虐待の悪に至るまで、聖餐会に出席しないという悪から、祈る事を忘れる悪まで、悪について語る事にかなりの時間を捧げています。

 

そして、霊感を受けて書かれた憲法で、悪を奨励する権利も保証されているという事に反論する人はいないと思います。罪悪な行為を奨励するスピーチが許させているのです。アメリカでは、改革、犯罪、卑怯な行為、不正直を奨励する事が出来ます。私の住んでいるオーレムの近所で、税金を払わない様に奨励して歩いている男の人がいます。それはまさしく罪ですが、誰も彼を止めません。なぜならば、彼にはその権利があるからです。どの社会においても、ある人にとっては悪と思われる事でも、違う人にとっては良い事で、公平に思える事があります。そして、自由な国では、政府が一方を封じ押さえ、一方を奨励する事は禁じられています。各個人が両側の意見を聞き、個人的な判断を下す事を期待されているのです。

 

しかし、第三階級の悪、つまり、言葉による表現自体が悪であることがあります。その典型的な例が、混雑している劇場で「火事だー!」と叫ぶ人です。その人は冗談を言っただけだと言えるでしょう。 表現の自由により嘘をつく事ができるとも言えるでしょう。しかしながら、実際のところ、その嘘によって起こる混乱の中で、人の命、又は手足が失われるかもしれないのです。同じ様に、戦争中に軍の移動に関する情報を公表する事も、表現の自由によって保証されることはありません。なぜならば、それは命に関わる事だからです。時には権利が衝突する場合があります。自由社会はそれを保持する為に、自分たちの自由を制限する必要があります。

 

これはフィクションにどのように当てはまるでしょうか。全てのフィクションは悪を描写しています。しかし、悪を描写する事は悪い事ではありません。そして、全てのフィクションは、究極的には作者の道徳的信念を表し、そして、各作者が違った道徳的信念を持っているので、ある作品は少なくとも幾人かの読者にとって罪悪だと思われる事を奨励してしまうであろう事は逃れられません。

 

フィクションが悪を実際に実行する場合においてのみ、それは危険なものとなります。そして、その場合、自由社会の政府はそれを制限する事を考慮し始めます。

 

ポルノはフィクションが悪を実行している明らかなケースです。ポルノは直接的、又は間接的に性的な満足感を与える為に作られています。ポルノの魅力は文学的なものではありません。作者は技術的に有能であっても、ポルノの影響は美的ではなく、官能的なものです。それは読者又は観覧者に、そのような、短時間で得られる楽しみを更に追求させます。

 

多くの人にとって、ポルノは大変退屈なものでしかありません。込み合った劇場で誰かが叫ぶ「火事だ!」という声に驚き、出口めがけて走らない人が大勢いるのと同じ程、そのようなもの(ポルノ)に、あまりひかれない人もいます。しかし、それにひかれやすい人は、ひどく衰弱させられてしまう可能性があります。初めに、それはエスカレートしていくものです。普通ポルノの消費者は以前は満足していたものがだんだん満足できなくなって来て、自分の欲求を満たす為に、前よりも更に異様で、暴力的なポルノを探していることに気がつきます。第二に、女性が野蛮に扱われ、自分の満足感だけが目的であるファンタジーの世界へ普通の消費者を引きずり込む事は、破滅そのものです。第三に、ポルノが他の性的な犯罪の原因になったという事の証明がされた事はありませんが、それが、そのような罪のそばにいつも存在している事は明らかにされています。レイプや殺人、拷問をする様な人間は、まず、ポルノの消費者でありがちです。そして、ファンタジーと残酷な現実が内側でどんなに密接に絡み合っていようとも、それらを識別するのは困難なことです。

 

しかし、この種のポルノは簡単に識別できます。それはポルノを要求する絶対的な観衆に的が絞られています。X評価の映画はポルノです。表紙は中身に何が載っているかを明確に表しています。それが何であるかにしろ、その御用達をするのは仕事人です。彼らは、何を売っているかを広告し、目標にしぼったマーケットに手を伸ばします。このようなフィクション、というよりはフィクションを装って悪を実行しているものを見分け、社会から廃止するのに、文学的な訓練は必要ありません。

 

問題は、不慣れな読者が性的な出来事や暴力的なものの描写を、ポルノ消費者対象に書かれていない作品内に見つけたときに起こります。このように、読書に慣れていないのに、本を検閲できると信じている人たちは、パイプ、又は性行為が載っている事実しか見えず、そのような悪行が描かれている目的を理解する事が出来ません。このような人はThe 『ガープの世界』の長々とした誘拐、レイプそして、殺人場面は、やり過ぎの風刺文学にすぎないという事が分かりません。また、 ダニエル・マーチンを読んで、複雑な性生活に揺れ、不倫の恋の賞賛を書く主人公は、実は、結婚とその約束に対する美しい防衛を描く作者の道具だという事を理解できないのです。著者が本当に与えようとしている事を受け取れず、無学な読者は、そのような作品を全てポルノとして受け取ってしまうのです。彼らに見解の余地はありません。そのような人々は、後に制御方法を覚えるであろう性的欲求の荒波に、肉体がかき乱される13歳の男の子達が、コミック漫画の胸の大きい女の人に性欲をかき立てられたり、シアーズの下着広告に悪いと思いながらも興味を持つのと変わりありません。彼らは、単に、何が起こっているか全く分かっていないので、見るもの全て刺激的に見えるのです。本の内容は忘れられてしまいます。彼らは本当に何が起こっているかを判断する責任をとるに足りるだけ成長しきれていない子供たちなのです。

 

フィクションの中で推進されている悪の場合はもっと複雑でありながら、単純でもあります。それは明らかに表現の自由の傘に入るので、とても単純です。作者がそれを望むなら、人々が罪悪を犯しながらも、全く満ち満ちた、幸せな人生を送っているさまを見せる事すらできます。また、義人を、哀れな自業自得の偏屈者の様に見せる事も出来ます。嘘をつく事もできます。有能な弁護士を雇って訴える事のできる人に危害を加えてしまわない限り、それは作者の特権なのです。しかしながら、最終的には、作者は自分に誠実でなくてはなりません。フィクションの中で、自分の良心に逆らった事を説得力旺盛に書く事は不可能です。もし作者が、家族を捨てたら、空っぽで哀れな、誰にも好かれない人物になってしまうと本当に信じるならば、いくら、彼の登場人物を、幸せに満ちた人のように書こうとしても、その信念は作品に表れてしまいます。作者が嘘をつくと、意識的にもしくは無意識のうちに、読者はそれを見抜いてしまい、そのフィクションを偽りであると拒否してしまうので、作者はいつかは自分に正直にならざるを得ないのです。真実の実体は逃れる事ができないので、真実の幻覚は失われてしまいます。

 

しかしながら、作者がお互いに同意しない場合、一作者の真実のこもった作品は、他の作者の持つ信条を否定する事になります。そして、その矛盾は一人では解決はしません。読者は、幅広い様々な視点を持つ作者によって書かれた真実の響きを感じます。これは大変紛らわしいものです。時にはとても腹立たしくさせられもします。

 

そして、ここがモルモン、そして多くのモルモンでない人たちが、重い検閲の斧を入れたがっているところです。『王子と乞食』は実際のところ、厳しい組織は犯罪人と呼ばれる人々を被害者化し、犯罪による問題は組織を直す事でおさめる事ができると言っています。マーク・トウェインはそれを、全部でなくともその多くを信じていました。そして作者が信念を持って教える時、その作品には真実の響きが伴うので、テキサスの再生教会学校区域内で、教科書ガイドを供給している善良な再生教会信者の夫婦の様に、 そのような罪悪な本を禁止したいと思う人々がいます。

 

世の中には、約束事が個人の欲求を妨げる時は約束事を破らなければならないと教える、真実の響きを伴った本があります。結果的に犯罪を犯す事になっても、他の犯罪を止める為には法律を忘れてしまう事が時には必要だという教えを、真実の響きを持って教える本もあります。

 

これは最近話にならないくらいの度合いで起こりました。あるテレビ番組、これはどちらかというと、あまりうまく作られたとは言えない番組で、十代の性行為がどれだけ彼らの人生をめちゃくちゃにしてしまうかを見せる趣旨のものだったのですが、十代の性行為を奨励するものと勘違いされ、代わりに、私に言わせれば、防衛主義と暴力を祝う作品の中で、最も吐き気を催してしまう程ひどい作品の一つである、ダーティーハリーを代入しました。一種の人々にはその変化は向上と見なされましたが、私にとっては確かに降下でした。

 

しかし、本当のところ、フィクションの中においてまでも、自由社会ではどのような視点をも奨励する事が保証されています。ダーティーハリーの作者はアメリカのスターリンを英雄の様に見せる権利があります。そして、意見を供にしない事はできても、彼を止める事はできません。しかしながら、私にはそれに立ち向かう武器があります。それは、なんとかして、読者を違った結論に持っていく事のできる様な、もっと力強い経験を提供する私自身の本を書く事です。

 

統一国家が、相変わらずフィクションを含めて、というよりも、特にフィクションの作家を検閲するのは偶然ではありません。

 

ある観点を奨励するのに、フィクションの持つ力には驚くべきものがあります。奴隷制を好む人たちは、小説家が自由な時代は、政府が彼らの心と思いをコントロールする事ができない事を良く知っています。だからこそ、この自由社会では、奴隷制度を奨励する声までも押さえる事ができないのです。なぜならば、自由を投げ出そうとする彼らの権利を守る事こそ、自由そのものだからです。もし、その声を消してしまえば、彼らの内の一人になってしまう事になります。自由を保存する為に破壊行為を行えば、それは私たち自身が『敵』になってしまうのです。

 

 

今、悪について討論しました。今度は正義についてです!

 

フィクションを支持することについて、単純になる代わりに複雑になる、この辺りが特にモルモン的な問題に入るところです。モルモン教徒はご存知の様に、真実を手に入れています。私たちは何が善で何が悪かについて、何の迷いもありません。ですから、悪を禁止するのには、至って安全で、『私たち』は間違って善を捨ててしまったりする可能性はまったくありません。いつも赤ちゃんとお風呂の水の見分けがつきます。(赤ちゃんをお風呂に入れた後、桶に残っている汚くなった水と一緒に、中にいる赤ちゃんまで捨ててしまうというたとえ話から、大切な物とそうでない物の区別を付けるという意味を表す時に用いられる英語のことわざ)私は常にそう確信できるかは分かりません。

 

私は最近『現代モルモニズムのルーツ Roots of Modern Mormonism』という題の本を読みました。人類学者である作者のマーク・レオンは注意深い公平な目で、私たちが 主張する事ではなく、私たちの実際の行動を観察しながら、アリゾナ東部のワードをいくつか研究しました。その見解はなかなかおもしろいものでした。

 

しかし、その見識の中の一つに、私は驚かされました。レオンはモルモンの教えは固い教義がとても少ない、つまり、モルモン教会内での信仰は大変幅があり、モルモン教徒は、神から明らかにされた全ての真理を持っていると納得しているのに、実はそれが、全体的に信じられている事を信じていないというのです。

 

私にとってそれは不可能に思われました。しかし作者は、他の点についてとても知覚が鋭かったので、彼は何処でどう間違ったのだろうと思いを走らせずにはいられませんでした。これは大切な質問です。もし、教義の大部分がしっかりと築かれていないと、私たちの信仰に反論する作者を禁制する必要がある時、自分達の足下をすくわれかねません。

 

絶対的にはっきりとした、全体的に認められている信念があると同時に、教会の会員や指導者の間で全体的に同意されていない、時代とともに変化した箇所の教義があります。

 

変化のあった教義の例として、次のようなものが揚げられます。

 

百年前、総体会で使途達は一夫多妻は生き残りになくてはならないものだと説きました。

 

教会初期の頃の、昔の信仰についてのお話では、神会は神とイエス・キリストの二方から成り立っており、聖霊は神とイエス・キリストの思いであると教えられていました。聖霊は個別の者であるという教義が明らかにされたのは、ブリガム・ヤングが予言者に召されて、だいぶ経ってからのことです。

 

ウィルフォード・ウッドロフ大管長になるまでは、結び固めの教義がよく理解されてはいませんでした。それまでは、人々は、教会での気高い血統を確立する為に、自分の先祖とではなく、教会の有名な指導者と自分を結び固める傾向にありました。教会が、子供と親の結び固めを、分かっている限りにさかのぼって行う今日のやり方に変えたのは1890年代になってからのことです。

 

一言で言うならば、時の流れの中で、沢山の教義的な変化と発展があったのです。そして、どうして、それが末日聖徒イエスキリスト教徒を困らせることになるのでしょうか。私たち聖徒は一年に何回もこれについて歌います。「主は聖徒に理解をもたらす」。規則に規則を加え、誡命に戒めを加えながら、更なる光を受け入れられる様になると、教義は変っていくのです。

 

それなのに、大きな変化があるといつも、かわいそうに、幾人かの人が、教会から遠のいてしまいます。そういった人たちは、ジョセフ・スミスが名前の綴りを間違えた時、ジョセフ・スミスの銀行口座が負債に陥った時、そして、ジョセフ・スミスが示顕を書き直した時に去っていってしまいました。教会が一夫多妻を禁止した時、そして、再降臨の前に黒人に神権が与えられたとき、彼らは去ってゆきました。これらの人々は、各予言者はその時代の人々に主の言葉を伝えルト言う事を忘れているのです。今日の予言者は昨日の予言者より優先権があり、明日の予言者は今日の予言者を上回るのです。

 

しかし、教会は時代が経つにつれて多様になるだけではありません。どの時代をとっても、多様な聖徒が見られます。この部屋の中にも、進化論は完全に福音と調和すると信じておられる善良な末日聖徒がいらっしゃる事と思います。そして、 進化論は聖典に全く反するものだと信じておられる、同じぐらい善良な聖徒がいらっしゃいます。

 

しかし、意見の相違は一般の末日聖徒間だけのものではありません。意見の相違は教会の最高幹部の間でも常に存在しました。たとえば、デイビッド・オー・マッケイは、地学的時間の原則を固く信じていました。ですから、BYUでのスピーチで生徒達に、地球が作られるのに費やされた何億年を含めて、沢山の事を勉強する様に勧めました。しかし、ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は全く反対の意見を持っていました。 教会の大学であるBYUの、イヤリング・サイエンス・センターで教授がデイビッド・オー・マッケイを引用しながら、進化論を教える傍ら、道を挟んだ向かいにあるジョセフ・スミス・ビルディングでは、他の幹部の引用を控え壁にしながら、地球は6千年間の間で作られたと言う考えを教える光景に出くわすのは偶然ではありません。この不均等さは、実は公に知られています。ジョセフ・エフ・スミス大管長は今世紀のはじめに、どのような方法をとられたにせよ、神が地球と人間を創造されたという、正式な声明を出しました。私たちが、詳細について同意する必要はないのです。

 

食い違いは、はっきりした不同意を生み出します。第一次世界大戦の終わり頃、ウッドロー・ウィルソン大管長は国際連盟の熱心な奨励者で、国際連盟は、代々に渡って、ヨーロッパの若者の大半を滅ぼしてしまった、あの苦悩と殺戮をさけるための強力な道具となると信じていました。教会の大管長ヒーバー・ジェー・グラントと多くの幹部がそれに同意していました。彼らは、総大会で、ステーキ大会で、ワードで、何処ででも、合衆国が国際連合に参加する事を奨励しました。なぜならば、私たちが完全に国連に参加する事なく世界平和という目的を達成する事はできなかったからです。ある幹部たちはウッドロー・ウィルソン大管長は国連を築く為に主に召されたとさえ言いました。教会が正式に国連に賛成の姿勢である事は誰の目から見ても明らかでした。

 

しかし、首都ワシントンにいるユタ州知事の一人であるリード・スムート氏(彼は少しの間、この学校の生徒でもありました)は、共和党の知事で、国際連盟はアメリカの主権放棄につながり、膨大な規制のために、効率の良い国際社会の警察としての役割を果たせなくなってしまうので、避けなくてはならないと見ていました。たまたまリードは教会幹部でもありました。彼は神の予言者が明らかにした気持ち、そして、十二使途の気持ちと全く反対の意見を持っていました。ほんの数人の教会幹部しか彼の意見に賛成していませんでした。その忠実な勇者達の中にいたのが、デイビッド・オー・マッケイ、ジョセフ・フィールディング・スミス、チャールズ・ダブル・ニブリー、そして将来の教会幹部アンソリティー・ジェイ・ルーバン・クラーク・ジュニアでした。

 

これらの忠実な末日聖徒の指導者達が、主の予言者と意見を異ならせた時、どのような行動をとったかを見るのは、とても勉強になると思います。両側の幹部達は、これを道徳的問題と受け止め、聖典を引用して、それぞれ国連賛成、反対の意見を弁護しました。論争が頂点に達していた頃、ジョセフ・フィールディング・スミスはグラント大管長にこのような手紙を書きました。

 

         どうやら、私は大多数の兄弟達と完全に調和してはいない様に伺えます。私は調和を乱すような事はしたくありません。これはとても神聖な事柄です。真理を支える為に兄弟達を助け、そして常に主の御霊と共におれるように生きる事の他に私の望むところはございません。この事柄について祈り、夜も横になりながらこれについて考え、顧みれば顧みる程に、私のとっている立場(国際連合反対)は正しいと思えるのです。このような状況の中で、頼りきって話せるのは、あなたの他には誰もおりません。私は自分が誤解されない事、そして、私のとっている立場を尊重していただける事を、確信し、希望しています。

 

そして、上院が国連条約の選挙をする時が訪れ、教会幹部であると同時に知事でもあるリード・スムート氏は、予言者と大多数の十二使途の意思に真っ向から反対する投票をしました。そして、一部的には彼の投票の結果、同盟は失敗に終わりました。

 

予言者と意見を異にした兄弟達にはそれから何が起こったのでしょうか。チャールズ・ダブル・ニブリーは数年後グラント大管長の第ニ顧問に召されました。ジェイ・ルーベン・クラーク・ジュニアは後に教会の大管長会の一人になりました。デイビッド・オー・マッケイとジョセフ・フィールディング・スミスは後に教会の大管長に召されました。そして、予言者を支持した兄弟達はもちろん定員会でフル活躍しました。

 

この出来事の語るはっきりした教訓は、モルモン教会は、忍耐深く愛情深い教会であり、私たちが共通して持っている、全ての重要な信仰のもとに、時にはかなり異なった信念を持った人々がと統一される教会なのです。私はここでその例を並べ揚げるつもりはありません。既に、プライマリーで暗記されたはずです。忠実なモルモン教徒が、道徳的な、聖典上の、そして教義的な事柄でさえも、同意しない事は全くもって可能です。不同意や誤解の可能性を前もって削除する狭いカトリック教で見られる様な公開問答を支持するので、この教会の会員である理由ではありません。私たちをつなぐものは、キリストの兄弟愛と、お互いの、また、それを受け入れる人全ての永遠の昇栄を助け合うという目標を共有することです。教会は人を削除するのではなく、受け入れます。また、それは柔軟性があり、常に変化しています。かたくなで、不寛容ではありません。

 

この点と同じ事が、フィクションの中で何かを奨励する事についてもあてはめられる事はきわめて明確です。あるフィクションが著しく罪悪だからという理由で、末日聖徒に読む事を禁止する必要はほとんど無く、それはあまり好ましい事でもなければ、可能な事でもありません。そのような事柄については、私たちは自分で判断する事を信頼されているからです。(確定した教義外で、教会が公式に人に制御を施さなければならない唯一の場合は、個人が自分の視点を奨励し、教会自体を攻撃し始める時のみです。その時点で、そのような人が教会から自分を剥奪する事を選んだとき、教会はただその個人の決心を裁可するにすぎません。)

 

主は真理を過去にも、未来にもありのままに明らかにされます。しかし、私たちが人間である限り、常にその真理からは、少なくとも一歩は慣れたところにいるのです。真理の探究において、私たちはそうであった、そうである、そしてそうであろう真理との直接の接触は持てないのです。過去の出来事はそれを見た人たちによって私たちに伝えられます。そして、彼らが、どんなに正直であろうとも、彼らの持つ偏見で、観察は色付けられます。私たち自身の偏見は、物事をその通りに見る目を曇らせます。予言者は将来の示顕を私たちに伝えます。しかし、それらの示顕を、これから起こるであろう全ての事柄の、はっきりとした、正確な予報として照らし合わせる事は不可能なのです。

 

私たちは沢山の方法で真理を発見します。「観察』は何が起こったかでなく、何が起こった様に見えたかを私たちに伝えてくれます。「一般化」は何が起こるかではなく、今までの似通った、又は、全く同じケースにおいて、何が過去に起こったかを私たちに知らせてくれます。「予想』は何が起こるかではなく、存在する証拠が人々に何が起こると信じさせるかを私たちに教えます。「処方」は何が起こらなければ『ならない』かではなく、個人が何が起こる事を『望んでいるか』を教えます。良きにしろ悪きにしろ、それは実際の出来事でのみ証明されます。

 

実に、この真理に近づくすべの中で、最も危なっかしいのは、処方です。なぜなら、それははてしもなく私たちの予想の確実性にかかっているからです。医者がペニシリンを処方するのは、ペニシリンが、あなたの持つ症状を和らげるという事が、過去に何回も証明されているからです。それは、処方されるペニシリンがあなたの疾患を治すという医者の仮定によります。

 

ペニシリンが処方するに値するという、たくさんの証拠があります。しかし、物理学、科学、又は他の確定された科学から遠のくと、推定は大変不安定なものとなります。歴史、政治、精神学そして社会学的推定は、何が将来起こるか、つまり、何が起こる『かもしれない』かという事になります。歴史は今まで何回も繰り返してはいますが、詳細までは繰り返しません。帝国は、同じパターンで生まれ、沈んでいきはしますが、果てしない進化の中で、物事は日々その瞬間瞬間に起こります。そして、二日として同じ日はありません。ですから、人間行動の推定、(つまり、そのすばらしい何々が起こる『かもしれない』という推定)は、実験が繰り返されると毎回それが起こると言った経験に基づいたものではないのです。そのような推定は、取り上げられている出来事に関係があるか、あるいは全く関係のない、それぞれ独立した出来事から出された結果がベースとなっています。人間行動を推測する時、煮詰めると、何々が起こったであろう、何々が起こったと『思う』、そして、一番危ないのは、『もし、・・・さえ・・・だったら』何々が起こっていただろうという言い方に頼りがちになるのに気づかれるはずです。

 

『もし・・・さえ・・・だったら』 もし学校に性教育がなかったら、私の娘は妊娠していなかっただろう。もし学校に性教育があったなら、私の娘は妊娠していなかっただろう。

 

もし、教科書さえちゃんとしていれば、子供達は間違った事を考えないだろう。

 

もし、性や犯罪を載せた小説さえ禁止されさえすれば、恐ろしい犯罪の問題は解決するだろう。

 

もし、ジョン・ゲイシーの父親が、冷たく、親しみのない人でさえなかったなら、ゲイシーは沢山の罪のない若者達を殺す事はなかっただろう。

 

もし、人々が醜い事柄を口にするのを止められさできたら、この世は美しくなるでしょう。

 

大変多くの規定が、あの潜行性のあるフレーズ「もし・・・さえ・・・だったら」にかかっています。ですが、「もし・・・さえ・・・だったら」は、そのフレーズを永遠に真理の敵にする二つの獰猛な嘘を含んでいます。

 

一つ目の嘘は、『さえ』という言葉です。その原語は『ひとつ』で、現実ではまず起こりえない単一を表します。それは、ひとつの変化がひとつの影響をもったらすという意味を含み、それ自体大変奇妙な事なのです。例えば、もし、チェンバーレーンがヒットラーを穏やかになだめるのではなく、彼の暴虐をやめさせる様な厳しい措置を早めにとっていさえいれば、第二次世界大戦は防げただろうという意見です。なんと素敵な事でしょう。どれほど簡単にそのような悲劇が防げたか、そして、将来そのような事をなんと簡単に防ぐ事ができる事かと歴史を振り返りながら思うのは、とても心地の良い事ではないでしょうか。しかし、チェンバーレーンがとった穏やかになだめる行為は、それ自体、原因ではなく、効果があったのです。もし、彼がポーランドの侵略以前にヒットラーとの戦争を薦めていたならば、彼の政府は倒れ、イギリスは彼がした様に、戦争を避けようとするであろう人物を彼の座においたでしょう。そして、もし、ヒットラーが勢力を確立させるずっと以前にイギリスとフランスがドイツを侵略していたならば、今日私たちは、その行為を不道徳な戦争行為と非難するのではないでしょうか。どの出来事にも単一の原因はありません。そして、どんな変化からも単一の結果は生まれません。

 

二つ目の嘘は『もし』です。『もし』は予想している人が原因と結果のつながりについて完全な知識があるという前提をおいています。しかし、そのような完全な知識は誰にも与えられてはいないのです。それは私達から永遠の物事を見えなくしている幕の意味の一つなのです。私たちは時間というものの中で、一日一日生きています。そして、世界は私たち自身の感覚で、知覚できる範囲に狭められており、教訓を教える人たちから習える様にできています。もし私たちが神様が持っておられる様な完全な知識を持っているなら、ここでの試験はありません。私たちは無知の状態に置かれています。なぜならば、その無知の状態の中でのみ、自分が本当に誰なのかを、神と自分自身に見せる事ができるからです。『もし』何かを違うふうに『さえ』していれば、何が起こっていたかを知る事は私たちには『できない』のです。自分たちの心が欲する事と、その行為をした時点の、自分の目標のみを知る事だけが出来ます。それによって、つまり、何を欲し、何をしようとしたかによって、私たちは裁かれます。趣旨と行為であり、行為から出る永遠に続く結果ではありません。私たちはギリシャ人の様に信念深くはありません。末日聖徒は、神が、オイディプスに、犯そうと思ったことのない罪の為に罰を与えたりするとは信じていません。私たちに「もし・・・さえ・・・だったら」は何の意味も持たないのです。

 

では、どうして人は、性について読む事さえさせなければ、自滅的な試みをしたりしないと信じる人がいるのでしょう。小説というものが存在するずっと前から、ヨーロッパは罪悪という家紋を背負った人々であふれかえっていました。つまり、不法セックスの歴史は人類の歴史と同じくらい古く、私たちフィクション作家がその原因という訳ではありません。

 

なぜ、小説家が罪悪な行為を描く事をやめさせさえすれば、悪の行為は社会から消えると言う様な事を信じる人がいるのでしょうか。中世ヨーロッパの字の読めない貴族の間で、強奪する敵がいない時に、強欲な騎士達が同胞を強奪するという集団殺人がありました。イワン雷帝は残虐になる方法を小説家に教えてもらう必要はありませんでした。レイプは三文小説の中で発明されたのではありません。

 

フィクション内の悪の記載は悪事ではありません。喜ばしくない事を口にする事は、それを奨励する事と同じ事ではありません。今書いている小説の中で予言者ジョセフ・スミスの殺害を書く事は、私が彼の死に賛成している訳ではありません。真理の名において、悪の記載を禁止する人こそが真理の敵なのです。彼らの映画は良いかもしれませんが、彼らの目標もその方法も、ほんの少たりとも世の中を向上させるものではありません。

 

善の恋人と悪の生徒

 

今まで申し上げてきた事全ては、末日聖徒の小説家を、善の恋人と悪の生徒という、特異な立場に置く事になります。フィクションには真実の響きがなくてはならないので、私は悪を説得力旺盛に書く事を学ばなければなりません。私は人を殺した経験はありませんが、人間が人を殺すまでに至る動機を理解しなければなりません。姦淫をした経験はありませんが、結婚の誓いでだけでなく、何年と共有した経験で結ばれた結婚を破壊する方向に人を仕向ける動機を理解しなければなりません。恐ろしいことには、人間がそのような悪事をおかす動機は、自分自身を見つめることで、簡単に見つける事が出来ます。ただ慰めになるのは、人を良い事をする様仕向ける欲望も自分自身の中に見つける事が出来るという事です。

 

『指輪物語』の三部作は悪を取り扱うときに出くわす問題をあげるには全く良い例です。ジョン・ロナルド・ロウエル・トールキンはいたってまともな人間でした。しかし、彼が悪で何をしたかをご覧ください。サウロンは悪党ではありません。単に意地悪なだけで、何とも不愉快な事をしています。そして、何が彼をそう仕向けるかについてはみじんのヒントも与えられていません。彼は良いものは破壊し、もし破壊できなければ、それをわざと曲解します。でも、なぜでしょう?トールキンは自分を単に悪者だというだけです。それは悪を真っ黒に塗り、不快な事をさせ、それが登場すると皆は悲鳴を上げるという大変安っぽい悪の扱い方です。

 

しかし、トールキンの作り出したサウロンとサウロンの陰の様な、小鬼っぽく、全くもって個性のないオークスは、トールキンが実際に悪を料理する時、そこにはいません。高慢という名の誘惑に負け、自己中心的な結末を追う白の魔人サルマンでさえも、薄っぺらに取り扱われ、読者にほんの少ししか同情と恐怖を感じさせません。トールキンはどこで悪を、実際に存在するかの様に、重要に扱っているのでしょうか。基本的には、主人公のフロドです。最初にリングを手に入れるところから、Cracks of Doomでの恐ろしい結末に至るまで、私たちが追い続ける善良な男です。サム・ギャムジーを残してエルフと共に西へ航海に出る時に泣かせてくれるフロドです。責任を誰かに押し付け、逃げ出そうという誘惑と格闘するのはフロドではないでしょうか。最終的にリングの力に圧倒されるのはフロドではないですか。ガルムを殺したいという誘惑に立ち向かい、それに勝つのはフロドではないでしょうか。フロドの相棒サムワイズ・ギャムジーも、彼の罪悪な欲望とよく似た葛藤をします。そして、ガルムは、善と悪が違った割合で混合しながらも、全てそこにある事に気がつきます。これが指輪物語の登場人物の中でまともな人たちです。トーキンの強いキリスト教的な視点から、この弱く欠陥のある三人が力を合わせて、物語の中で最高の正義をもたらすのは偶然ではありません。善と悪の欲望の間で、内面的な葛藤をするこれらの登場人物が、読者の記憶に残り、最も愛おしく思うのは偶然ではありません。

 

フロドやガルムの様に、私たちは自分自身の中に善と悪の欲望を持ち合わせています。私たち神の子はエルフやオークスの様に、良い事だけを望む人や悪い事だけを望む人のようには分けられません。そのような創造物は薄っぺらいフニョフニョのボール紙です。トーキンが小人をたった一人しか下見に出さなかったのは正解でした。さもなくば、この二人の小人の区別はつかずじまいだったでしょう。小説家が自分の心の奥に手を当てて、善と悪の欲望を発見するだけでなく、現実的な登場人物の殆どが、同じような矛盾した欲望を持っています。それは、登場人物が悪を行うから面白いのではありません。彼らの善と悪の欲望を自分自身の中にも見つける事が出来、彼らの行動を通して、まだ決めかねている結論に伴う結果を知る事が出来るので、私たちはその登場人物と自分をあわせるのです。

 

しかし、物語や小説の中で悪を描写する時、複雑な善と悪の混ざりあいを視野に入れるのに困った事は一度もありません。私の登場人物が罪を犯す際、読者にその行為が悪である事をいちいち説明する必要はありません。私にとってみれば、姦淫をする者は、いずれはその裏切り行為の代価を支払わなくてはならないし、人殺しをすれば、他人の生命を軽く扱うことから人間性を失ってしまう事は逃れられない事なのです。意識的に考える間もなく、私の内側にある真理とは何かという感覚が物語の構想を形作り、末日聖徒として生きた人生が蓄積した道徳的価値を表面下で唱道します。

 

現在私は架空のダイナ・カークハムという名の末日聖徒の女性の経験について執筆中です。彼女はマンチェスターの工業革命のもたらす悲惨な貧困に打たれ、たとえそれが、夫と子供達を置き去りにする事になろうとも、新しく信仰し始めたモルモン教の教えにより、アメリカに導かれました。ノブーで彼女はジョセフ・スミスの妻の一人になりました。ジョセフの死後、彼女はブリガム・ヤングと結婚し、後に、溺愛する姪が福音の中で幸せになるのを見ます。この千ページの小説の中で、私は一度たりとも、モルモン教は真実であるか否かという質問をした事もなければ、その質問に答えようともしていません。私が書いているのはそれについてではないのです。

 

私が書いているのは、『彼らが』福音を真実と信じた為にとった行動についてです。自分の家族を捨て、一夫多妻を受け入れたダイナ・カークハムは信じられない程力強い信仰を持っています。読者がこの主人公を実際に存在しうると思える様に、彼女の動機を信じられるべきものにする必要があります。読者がこの本を閉じるとき、彼らは「モルモン教会は真実に違いない。」とは言いません。しかし、もし私がこの仕事をちゃんとやれば、「モルモン教徒はすごい人たちだ」と言うでしょう。しかしながら、私の小説が反映する教会のイメージよりもっと大切なのは、小説が行き着くところに反映するであろう私の個人的な道徳信条です。ダイナ・カークハムは、小説の終わりには幸せな、尊敬できる、自信に満ちた人間になっています。彼女は困難にあっても、信仰を持ち続けました。モルモン教と福音が彼女にさせた犠牲が彼女を大きくしました。その点では、私は福音を唱道せずにはいられません。それが福音が選ばれた霊に働きかける方法だと信じています。正直に他の方向で書く事は出来ません。

 

しかし、この小説では、私が書いた他の全ての小説と同じ様に、最も力強い出来事の殆どが、悪が描かれるところに表されています。殺人あり、レイプあり、人は神を汚し、残虐で、苦しむ人がおり、苦しみを与える人がいます。エンザインのパイプの目的が読めなかった人の様に、私の作品を読む人の何人かは、それを誤解する事は間違いありません。なぜならば、彼らはフィクションがどのような仕組みになっているのか理解していないので、悪が描かれているのを見、それが奨励されていると思うのです。つまり、彼らは私のはっきりとした証を探すのですが、見つける事が出来ないのです。

 

そして、これはモルモンの小説家がいつかは直面しなければならない事なのです。ロバート・ストダードが音楽を担当した、私の舞台劇『ストーンテーブル』が7年前BYUで開演したとき、モーゼスとアーロンがジーンズをはいているところだけを見たり、がちゃがちゃして、やかましい音楽だけを聞いた観客が大勢いました。その舞台は明らかに悪魔に導かれたもので、BYUでのプロダクションにふさわしくないという結論に達した人もいました。しかし、同じ観客の中には、信仰深い信者であるロバート、私、そしてキャストやディレクター達が見せようとしていたものを理解した人もいたのです。彼らは舞台劇を与えられたままに受け取りました。

 

これは私が伝道に出ている間の出来事です。私が帰還したとき、友達は『ストーンテーブル』が開演したとき、たまたまプロボを訪れていたと言いました。彼女はBYUを中退していました。一年前にバプテスマを受けてはいましたが、証は薄れ、福音は何も与えてくれない空っぽな約束の様に思えて来ていました。彼女は『ストーンテーブル』のリハーサルを観て、今まで考えた事もなかったアイデアや感情に劇の中で出会いました。彼女はスケジュール通りにカリフォルニアに帰らず、舞台を何回も何回も観ました。改宗に導かれた時に感じた感情を思い出したのです。そして、その舞台は彼女の人生を大きく変えた事を私に告げました。

 

もちろん舞台が彼女を変えた訳ではありません。神の御霊が彼女を変えたのです。しかし、面白いとは思われませんか?毎晩続く舞台の中で、舞台に悪の霊を見る人もあれば、その同じ場所、同じ観客の中で、神の御霊を見た一人の女性がいたのです。

 

フィクションを書く事はとても孤独な行動です。印刷されたページは何年もに渡って存在しますが、フィクション芸術は舞台なり、映画なり、シンフォニーなりが行われているその時点だけに存在します。物語は誰かがそれを読んでいる時にのみ存在するのです。フィクションの創造は作者と同じくらい読者の手にもかかっています。作品中の悪の有無がフィクション作品の善し悪しを決めるのではありません。フィクションの道徳的な価値を決めるのは、それを書いている人の人柄と書く技術、そして、読む人の人柄と読む技術です。悪どい作者は悪どい作品を書きますし、技術に書ける作者は自分の本であまり大きな事は出来ません。その人が良い人であろうとなかろうと、悪どい読者は本の中の悪にしか気がつきません。そして、鍛錬不足で技術に書ける読者は、どんなに道徳的にすばらしい人であろうとも、本の中に本当に何があるのかを見つける事は出来ません。

 

そして、まだそれでも単純すぎます。私がどんなに良い人になろうとがんばっても、間違いなく私の性格の中には、まだ発見していない、もしくは抜ききれていない、不完全なところがあり、それは作品に表れます。そして、最も腐った小説家でも、善良な事を望む心のかけらが残っていて、それが、作品にきれいな足跡を残します。私たちがいつもどの作者が良く、どの作者が悪いと確実に分かっても(実は分からないのですが)、自分自身のどの個人的な信条が永遠に真実で、どれが間違っているかが分かっても(実は分からないのですが)、完璧な手法で、あるフィクション中の、善と悪を全て見つけ出せても(本当は出来ないのですが)、たとえそうであっても、自分が、人が何を書けて、何を書けない、又は、何を読んで何を読めないと言う事を決める判決管になろうとする事程愚かな事はありません。なぜなら、どんなに気に入らない本でも、他の人を幸せに導く真理のかけらを含んでいるかもしれないからです。

 

本を子供の様に考えるのは非常に的確かもしれません。明らかにとても良い子がいる一方で、両親を窮地に立たせてしまう様な子供もいます。常に反抗し、機会があるたびに悪を選ぶ様な、ゆくすえどうにもならない様な子供もいます。もし、どちらの子供を大人になるまで生き延びさせ、どちらの子供を、何かまた悪い事をする前に始末してしまうかを選ぶ権利があなたの手中にあったなら、どちらを選びますか?とんでもありません!子供がどんな風に成長するかなんて誰にも分からないのです。

 

フィクションがフィクションであろうとするのをやめる時、そして、その代わりに、読者の最も基本的な欲望を満足させるという独自の目的を持つ時のみ、単にフィクションが描かれる、あるいは奨励されるのではなく、直接的に悪を演じる時に限り、その時のみ、自由社会は作者と読者の自由に通信する権利を妨害しても、自分達を守る権利が許されるのです。

 

しかし、それではあなたは悪から身を守るすべはないという事なのでしょうか?もちろんそうではありません。両親が毎日子供に行う、人間を形作る力は絶対で、かつて、その百分の一にさえもおよぶ本が存在したためしがありません。子供達がフィクションから習う間違いは、彼らが友達から習うそれと同じ方法で対応することができます、つまり、模範を通し、真理への確信と献身を強めさせるという方法、つまり、彼らを愛する事により、間違いである事を彼らに教えるのです。それにもかかわらず、彼らの心が望む為に、悪を選ぶ子供達がいます。しかし、悪を欲する子供達には、悪とは何か、また、どうやってそれを手に入れるかを教える為のフィクション作家の必要は、すでにないのです。

 

そして、フィクション作家の作り上げる作品の中に、自分たちの人生を見つける事の出来る私たちは、フィクションの豊かな創造性の恩恵を受け続けるのです。ある人々にとって、本に囲まれて、人生の内沢山の時間を、トーキンの中つ国、ハーディーのウェセックス、レナウルツのギリシャ、トルストイのロシア、シンガーのポーランド、そして、ウォルターのウェールズに費やす私たちが、不思議な生き物に見えるかもしれません。彼らには、私たちが持っている、キャプテン・アハブ、サムワイズ・ガムギー、ハリ・セルドン、ホラチオ・ホーンブローアー、ルー・アーチャー、ヨサリアム・ダミアン、ガブリエル・オーク、バッシバ・エヴァーデイン、クラウディアスとジュリアン帝王、ボン・ハンボルト・フレイジャー、そして「もの言う木」への愛情が分からないのです。 今日私がお話しした事全て、つまり、この、私にとってはとても重要な事柄は、大半のアメリカ人、そして、悲しいかな、大半の末日聖徒にとっては、至って些細な事なのです。なぜならば、彼らにとっては、自分の選びによって、本というものは永遠に閉じたものだからです。彼らは、単純に本が読者の人生に及ぼす影響を理解できないのです。そして、無理解は両方に及びます。フィクションでしか人生経験のない人々は、最も空っぽなテレビ番組、最も空虚な映画、あるいはナンシー・ドルーの記憶そして、少年時代のハーディーボーイズの様で、どのようにして、彼らは生き延びて行くのか私には分かりません。

 

 

以下は、レクチャーの後にもうけられた質疑応答の場で、揚げられた、質問を要約したものです。同伴する回答は以上の演説で表現された視点を明確にするのに役立ちます。

 

1  あなたの演説では、悪と苦悩を交換可能な用語の様に使用されました。あなたはその二つの言葉を別の物として見る事はされないのですか。悪を見せないで、人間の苦悩を見せる事は出来ないのでしょうか?

 

私は悪という用語の範囲を意識的に広めてお話しした事に気がついていました。それに気がつく程演説を良く聞かれていた方がいらっしゃる事に大変驚いています!

 

はい、私は、究極的に悪が苦悩をもたらすとは信じていますが、もちろん苦悩は悪とは別のものです。沢山の苦悩は人間がもたらしたり、意識的にもたらされるのではなく、無作為の出来事から起こっている様に思えます。例えば、洪水、火事、地震そして大きな経済低迷等は、他の人が故意に起こすことにより、私たちの生活に影響を及ぼすものではありません。そして、フィクションは、実際、そのような自然災害に対する登場人物の反応について書く事が出来ます(書かれています)。

 

しかし、その主題はすぐに薄くなります。そして、自然災害の事についてだけを書く事は、世の中が私たちに信じてほしいと願っている嘘の一つを永存させる事になると思います。結局、反キリスト思想の油断ならない信条の一つが、人間は被害者であり、行動者ではない、つまり、人間の全ての苦悩は、人間がどうする事も出来ない影響から来ており、誰を攻めるにも値しないというものです。もしそうならば、なぜ、公平な神は人間を裁きにかけようとするのでしょうか。モルモン教の中で最も需要な教義の一つは、人間は作られたものではないというジョセフ・スミスの教えです。つまり、私たちの基礎になる欲望は『私たち自身』であり、神、もしくは、自然の力が作ったものではありません。私たちは常に自分自身であり続けるので、自分行動に責任があるのは、私たち自身だけなのです。神は御自分の創造物をおもちゃにして遊んでおられるのではありません。同僚である英知を向上させ、彼らに喜びを与えようとされているのです。そのような神と人間に関する視点は、自然災害が私たちに困難をもたらす時、私たちは、その困難に対する自分達の反応に、個人個人責任があるのです。そして、もう一度言わせていただきますが、末日聖徒のフィクション作家は、不死の状態に替えられる間際にいる主人公について書く場合を除いては、悪を載せる事を免れる事は出来ません。更に、末日聖徒作家は、殆どの人間の苦悩は自然界の出来事ではなく、人間の罪や、弱点の結果であるという真理を表さなければならない運命にあります。そうでなければ、私たちは、人生の中で、悪い事全てを神の責任にし、文句を言っている自分を見るでしょう。

 

この理由で、私は一般的な苦悩と、悪によって起こされた苦悩の違いは、フィクション作家にとってそれほど特別なものではないと思っています。全ての苦悩には、いずれは何かしらの悪の存在が浮かび上がってきます。末日聖徒作家は、人は自分の不幸に責任があり、人の不幸は自身の悪、又は他人の悪に対する自身の反応と切り離す事は出来ないという視点から出発しますので、特に福音を信じる作家にとって、悪を載せる事は必要不可欠になります。

 

2  作家が悪を描写する代わりに読者の想像力にそれを任せて、悪の描写を避ける事は出来ないのですか?

 

それは聴衆の風習によります。作家は読者とコミュニケーションをとる事が必要です。80年前なら、「ここから先に起こる事については、カーテンを閉めなければなりません。」と言われると、観衆は完璧に作者が何を書くことなく意味しているかを理解しました。しかし、今日の観衆はそのような直接的な省略を拒否します。そして、殆ど全ての事に関する、写実的な描写に慣れてしまっているので、含蓄に気がつかない傾向があります。つまり、読者側からすれば、見せられていないものは、起こっていないと同然という具合になるのです。

 

これは、小説家が観衆の無関心に力を貸さなければいけないという事ではありません。しかしながら、小説家は、自分の観衆とコミュニケーションをとる為に、他の観衆が必要と感じる以上に描写をしなくてはいけないかもしれません。それについては、小説家が自身の割合と節度の感覚を使って制御しなければなりません。私は今までに、性行為や暴力を挑発になると思う場面で書いた事はありません。しかし、性行為や暴力が起こる場面を書いた事はあります。私は登場人物の大切な行動を理解するのにどうしても必要でない限り、性行為や暴力を小説に含めた事はありません。例えば、聖徒でダイナ・カークハムは恐ろしい(私はそうであってほしいと願うのですが)シーンで、もう少しでレイプされそうになります。一番初めの下書きでは私はこのシーンを入れずに、ほんの少し参照した程度にしました。しかし、その下書きを読んだ人たちは、その恐ろしい出来事の恐怖感を体験しなかったので、その出来事に対してとった、ダイナの後の行動がよく理解できなかった事を明確にしました。そこで、私はそのシーンを挑発的にでなく恐ろしさが感じられる様に気をつけながら、その場面を加えました。

 

もちろん読者の中には間違った反応をする方もいますが、それは防ぐ事が出来ません。しかし私は自分の意向を知っていますし、理解力のある読者には私が意図した様に事が運ぶ事を知っています。それ以上は、読者が、作品にどのような考えを持って近づいてゆくかまではコントロールする事が出来ないので、読者の個人の反応についてはどうする事も出来ません。もちろん私はフィクション作家が何でもかんでも悪の描写をする事を奨励する訳ではありません。しかし、割合の感覚がフィクションを書くにあたり要求されるとすれば、作家が悪をどの程度の割合で取り入れるかが、それを見せる事の出来るたった一つの箇所でしょう。

 

3  ポルノにする意向がないにしても、性行為と暴力を絶え間なく読み続ける事が、取り返しのつかない、残酷な影響を読者にもたらす可能性はないのでしょうか?

 

それはもちろんあります。例えば、オカルト小説を常に読んだりする事は、神の御霊に親しもうとする読者の行動ではありません。しかし、これは小説家の決める事ではありません。それは読者の決める事です。私の小説を読んで霊的に痛めつけられたり、行き場がなくなったりする事はありません。しかし、腹立たしくさせられる事はあるかもしれません。また、過去に書いた小説の中には、読者が何ヶ月もかけて、何度も何度も読めば、確かに良くない影響があるものもあります。

 

しかし、客がトゥインキー(アメリカのチョコレートのお菓子)だけを食べて太り過ぎで死んでしまっても、それは、売った食料品店ではなくて、買った客自身の責任であると同じ様に、どのような小説を選ぶかに責任があるのは、小説家ではなく読者です。フィクションの世界は知的にも、感情的にも、感性的にもバランスのとれた機会を与えてくれます。それを賢く選ぶのは読者にかかっています。もしあなたが、政府があなたの食事のメニューを決める必要があると信じているのであれば、政府があなたが何を読めばいいか決めるべきだと信じる事が出来ます。もちろんこれは主題からそれますが、そうなると、文学的にも料理学的にも大変な毒になってしまうでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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