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フィクション中の悪の問題

 

BYUで行われた教会150年祭でのモルモン芸術に関するレクチャーシリーズより適用 1980年3月

 

1977年1月、エンザインの副編集長として働いていた際、不活発会員に、結婚を神殿で結び固める様に励ます特集をしました。その記事にマッチした、注意を引きつけるイラストを考えだすのは至難の業でしたが、不活発会員である父親が、同記事を読んでいる絵を起用する事にしました。つまり、その記事には彼の写真が載っており、その手のにも、また彼の写真の載った記事があるという具合です。しかし、一つ問題になったのが、ではどうやって彼が不活発であるという事を表すかという事です。エンザインは、まだ巧妙さという点では有名ではありませんでしたので、私たちはその絵の真ん中に、灰皿の上に置いた、火をつける前のパイプタバコを置くことにしました。もし、それが不活発モルモンを意味しないならば、読者の想像力を真剣に疑うしかないでしょう。

 

悲しいかな、私たちは人々の誤解能力をすっかり読み間違えていました。少数の読者からですが、そのイラストに対する苦情が送られてきたのです。それは大きく3つのカテゴリーに分かれていました。

 

1 「まあ、パイプの絵をエンザインに出して、私たちが見過ごすとでもおもったのでしょう。なんのなんの、しっかり見つけましたよ!」

 

2 『この世でたった一つ、悪を載せない雑誌があると思っていたのに、子供の目の届くすぐそこにパイプの絵が・・・それも、現在の聖典といっても過言でないエンザインの中に!』

 

3 「あんた達は本を印刷する前に見直しというものをしないのかね。60ページの挿絵の真ん中にパイプがあるじゃないか!こんなミスがす通りしているなんて、もっと見直しをしっかりしてもらいたいもんだね!」

 

これらの投書をした人たちは私たちの送らんとしていたメッセージの半分は受け取ってくれていました。それは、彼らはパイプに気がついた、そして、末日聖徒にとってパイプを吸う事は悪い事だという事を知っていたのです。すっかり受け取り損ねられた事は、(パイプという)悪を載せる事で、そういった問題を抱えている人たちの注意をひき、彼らを助けようという、こちらの意図でした。

 

悪を載せる事は必ずしもそれを奨励しているとは限りません。

 

人生の中で最悪の事は基本的に必要なものです

 

芸術の中で、悪が現されるべきか否か、もしくは現されるべきであればどのように現されるべきか、という謎は多くの人の興味をそそります。究極の芸術表現であるポルノグラフィーを地域社会から完全に追い出す為に、人生を費やす人もいます。そうかと思えば、才能を駆使して、芸術の中の悪を探求し理解する事を、生涯の仕事とする人もいます。私は二頭動物です。つまり、オーソドックスなモルモンの家庭に生まれ育ち、末日聖徒の視点からの善悪から逃れる事ができませんし、逃れる気もありません。今日、私は足の先から頭の先までモルモンでして、議題に応じて自分の信念を変える様な事をする気はみじんもありません。しかし、フィクション作家として、自分の作品の中に悪を描く事なく、優秀な作品を作る事は不可能である事を知っています。

 

何度となく、私は、ナイーブだと思われるかもしれないこのような質問を受けてきました(私は彼らの判断を心から尊重しますし、その質問も実はそんなにナイーブなものではないと思います)。「どうしてそんなに暗い物語を書くのですか。人生の良い面をどうして見せないのですか。なぜ、あなたのお話の登場人物はみんな苦しまなければならないのですか。」

 

まさに、なぜでしょう。結局フィクションは事実では「ない」のです。フィクションは『嘘』なのです。登場人物は作り物です。作り物でなくては困りますし、もしそうでなければ訴えられかねません。それでは、どうせ物語を作るなら、どうして楽しいお話をつくらないのでしょう。

 

とても分かりきったその答えは、同時に、とても些細な事です。つまり、幸せな世界で、幸せな人々が、幸せに暮らすお話を書く作家は、長くは生き延びられません。そのような幸せな事を気に留める人など誰もいないのです。悪は本質的にもっと興味をそそるものなのです。悪は売れるのです。

 

「その通り」と答えるのはクロムウェルの復活成功後の英国の聖教徒達です。「人々は悪が舞台の上で再現されるのを観に劇場に足を運んでいるのだ。演劇を全て禁止してしまえば、英国はもっと良い国になるであろう。マクベスと彼の血みどろの犯罪はいっさい禁止する。リア王とその自滅的な狂気も禁止。私たちはキリスト教者の為に世の中を安全にするのだ。」

 

しかし、20分もしないうちに、聖教徒達は劇場から投げ出され、劇場ビジネスは元通り復活されました。人々がそれを望んだのです。そして、私は、彼らが悪い人々だったのでそれを望んだとは決して思っていません。

 

悪は、容赦なく延々と続く善よりも面白いのです。なぜならば、悪の描写のない人生は嘘だからです。フィクションは『作り物』ですが、そのすべてが嘘という訳ではありません。いうならば、作者の嘘の隙間から、彼の真実に対する視点がどうしても浮き出してしまい、もし作者がそれを巧妙にすくいとったとしても、彼の視点の一部は読者と共に残り、読者を変え、形作って行くのです。フィクションの読者は、自分が読んでいるのは作り話である事を十分承知しながらも、真実の幻覚、そして真実自体に固執します。最初は真実の幻覚です。なぜなら、読者が、作者によってコントロールされた、主人公のおもしろい人生経験を誘導されるとき、読者はその物語の表面上の詳細と、自分の人生を通して知っている現実との間で、何らかの通信を強く求めるのです。これは本当にそうであると思われるはずです。そして、第二に、真実の本質。なぜならば、作者が、どんなに何回にも渡ってわざと嘘をついても、彼自身の奥底にある善と悪に関する信条が、作品に現れる事は避けられません。道徳的に中立の立場に立ったフィクションを書くのは不可能なのです。

 

真実の幻覚も、避けようのない真実の本質も、(表されるには)両方ともフィクションの中は悪の存在が必要です。人間は意識のはっきりして来る頃から、すでに、世の中は必ずしも心地の良いところではない事に気がつきます。私の息子、ジェフェリーは、もうすぐ二歳になるのですが、靴は必ずしも毎回正しい側に揃わないという苦い事実に直面しています。ジェロ(アメリカのゼリー菓子)をわざと髪の毛になすり付けたら、昼食は突然終わりになってしまうという、ひどく苦痛な発見にすすり泣きもしました。

 

二日前には、どんなに激しく泣き叫んでも、お父さんとお母さんは雷を遠ざけてくれませんでした。中でも、最も残酷な事実は、プライマリーの子供達は時々意味もなく、彼を叩いたり、押し倒したりするのです。

 

痛感な教訓はほんの始まりにすぎません。私たちは歳をとるにつれて、どんなに愛していていても、人はいつか死んでいく事を学びます。信頼していた友達が裏切ることもあります。愛する家族が私たちを傷つける事もあります。傷つけた事のない人たちが、私たちに対して犯罪を犯す事もあります。

 

しかしながら、私たちは必ずしもいつも被害者ではありません。時には自分自身が悪の加害者であるという、とんでもない発見をする事もあります。世の中は、たいていの場合醜くいもので、自分のちょっとした行為が、他人にとって、そして自分にとっても、世の中をもっと暗くしてしまっているという発見をする時、更に醜く感じるものです。

 

自然、他の人々、そして私たち自身の欲望が陰謀して、自らの人生に苦悩をもたらすこともあります。誰もそれから守られている人はありません。とても善良なので悪と接触を持った事がないという人など一人もいないのです。

 

そして、もしそれが人生なら、フィクション作家は、どうして正直に登場人物の人生を、悪の描写なく書けるでしょうか。

 

真実の幻覚は悪の存在なしにはありえませ。そうでなければ、読者は彼の登場人物を信じられなくなり、本を投げ出してしまるからです。

 

そして、内側から来る真実の実質への要求が、悪の存在を無くてはならないものとします。なぜなら、作者が登場人物の苦しみに対する葛藤を書かないならば、他に何が書けるでしょうか。もし、悪や苦しみや悲しみなしに生きるすべを知っているのなら、書く事などやめて、それに従って暮らせばよいのです。しかし作者は、いえ、第三者名を使うのはやめましょう、『私は』、悪に接触せずに生きるすべを知りません。ですから、私が書く人物も悪に直面します。その他の方法で書く事は不可能です。

 

もちろん、イギリスのクロムウェルのストライプを掲げた聖教徒は、それに対する答えを持っていました。もし、他に書く方法がないのなら、書くのをやめてしまえ。もし、小説家達が、世の中の悪の総数をあげる事しかしないのならば、皆の為にも書くのを一切やめさせよう!というものでした。

 

しかしそれは不可能です。既に試みられもしました。ソビエト連邦の共産主義者達が何年も続けました。しかし、最も暗い時代においても、命をかけて良いフィクションを読み、人々に広めた人たちがいました。ロシアの地下出版システムの中で、作者は誠の嘘の箱詰(フィクション)を作り、権力者に原稿を渡して彼を破滅させてしまう事だってできる友達にそれを渡しました。友達は、(彼を突き出す)代わりに、苦心してそれをタイプし(ゼロックスコピー機はその頃存在しませんでしたので)、原稿とコピーと両方を他の友達に渡しました。捕まってしまったかもしれません。牢屋に入れられて、愛する人々から引き離され、何十年間奴隷として働かされ、拷問を受け、あげくの果てには殺される事になったかもしれないのです。しかし、彼らは読み、タイプし、そしてそれを他の人に広めていったのです。

 

もちろん、あまり多くの人はこの動きに加わりませんでした。合衆国の人々も、避けれるならば大半は読書をしません。世の読書家の殆どを、嵐の様にさらっていった過去最大のベストセラーでも、一千万冊以上を売った事がありません。私たちの総人口は二億二千万ですから、それは何とも情けない、4.5%にしかすぎません。しかもこれはベストセラーの話です。私の最近の出版したペーパーバックの本は四万冊くらいしか売れませんでしたが、これは至って普通、というより平均より良いくらいです。私の出した最近のハードカバーの本は二千冊しか売れませんでした。ちょっと考えてみてください、あれほど感情的にのめり込んで書いたものが、全アメリカ人口の1パーセントのたった千分の一にしか読まれていないのです。こんなに国民あげて本を読まない国の、いったい誰が検閲権制度を必要とするでしょうか。

 

それでも、そんなアメリカの中ですら、食べるよりも読む事を好む人たちがいるのです。そして、彼らがフィクションから得ている何かは、彼らにとって、とても必要なものなのです。

 

そして、自分の作品を出版してくれる出版社が見つからない作家は、20ページ程読んだ後輪ゴムの下に却下スリップをはさんで原稿を送り返してくる様な、安月給とりの、洞察力に乏しい、半分寝た様な読者にしか読まれなくとも、原稿を書き続けます。

 

フィクションの必要性は殆ど世界共通です。文学が生まれる以前の社会では、講談師が尊敬され愛されました。聖典の多くが、悪人と善人に関する話を列挙する事に捧げられています。私たちはそれらについて歌い、踊り、劇にして演じ、映画を作ります。ちょっとしたテレビ番組のシリーズでさえもそのような要求を満たしています。 「ラバーン&シャーリー」は、 最も基本的なレベルで、知能的に未発達な人が、世知辛い世の中で幸せを見つける為に苦労をするお話ではありませんか。

 

現実は逃避者のフィクションからの逃げ場である

 

皆さんは現実逃避フィクションについてお聞きになった事があると思います。それは神話であり、実際には基盤がほとんどありません。一般的なイメージとしては、23歳の主婦が、3人の小さな子供に足首を噛まれながら、片手にアイロンを持ち、もう一方の手でペーペーバックを顔の真ん前に固定しながら読みふけっていると言ったところです。カバーには彼女と同じくらいの歳の女の人が、どんよりと曇り、嵐、もしくはもっと悪いものが降ってきそうな空の下を、暗い不気味の建物から走って逃げているシーンが載っています。もちろん、と、ステレオタイプの(そういった本の)信者達は言うでしょう。彼女は単調な生活からもっと遥かに面白いフィクションの世界に逃避しているのよ。

 

逃避?私はそうとは思いません。あなたはそのようなゴシック小説の中身をご存知ですか。私はたまにしかできないのですが、もしあなたが主人公に自分を当てはめる事ができたなら、極度の緊張、恐怖、不安、疑惑、苦痛そして裏切りを経験するでしょう。最終的にはハッピーエンドで終わり、読者はやっとほっとする事が出来ます、なぜならば、読んでいる間、読者はへとへとに疲れてしまう程の経験をくぐるからです。

 

サイエンスフィクションも現実逃避の焼き印をつけられています。そのようなナンセンスを信じる方は、きっと『デューン 砂の惑星』の、とてつもなく価値のある世界の後見者でありながら、何をしても逃れる事の出来ない、とんでもない運命を発見してしまう、悩めるポール・マッディブの気持ちなど、みじんも分からない方なのでしょう。ウエスタンやハーレクイーンロマンス、ミステリーは主人公に入り込んでしまっいる読者達にとっては現実逃避でも何でもありません。私にとってみれば、厳格な顔立ちのハンサムカウボーイが、町中の問題を全部解決して夕日の中へ馬とともに消えてゆくというのは、笑ってしまうくらい信じがたいものです。しかし、その類のジャンルを全て現実逃避であり、考慮する価値のないものとしてしまう事はできません。私が言えるのは、自分は、その種のフィクションを好むグループには属さないということです。なぜなら、そういったものを定期的に買う人たちは、厳格な顔立ちのハンサムボーイの事に興味があり、主人公の経験は彼らの経験であり、主人公の恐怖は彼らの恐怖、そして、最終的に主人公の勝利は彼らの勝利だからです。

 

フィクションの魅力、そして究極的には、全ての講談芸術はカタルシス(浄化法)なのです。主人公が、観衆の身代わりになるのです。芸術家は観衆の経験を形作りますが、究極的には観衆自身がその経験を個人的に、感情的に生きるのです。何百万人の人がテレビの前に座っても、何百人の人が演劇を観に来ても、一人一人が、親密な、個人的な経験をしているのです。それは、まったく全てが作者の作ったものではありません。それは常に、主人公の経験と観衆の経験のコンビネーションなのです。

 

ですから、ある作品はある人に、他の人に比べてもっと魅力的に移るのです。最近大好きなジョン・クロウリーの1979年の小説『エンジン・サマー』を友達にあげました(私は彼の好みをとても尊敬しています)。しかし彼はその本が嫌いで、これまで読んだ本の中で一番退屈な本だと思ったのです。そして、それが短い本だった事をなによりと思いました。しかし、私にとっては、それは今までに読んだ中で最も完全な本の一つでした。そして、既に私の人生の一部となり、自分を潤す為に何回も訪れ、何らかの決心をする時に知恵を得るために訪れる、記憶の井戸となっているのです。どうして彼はそのように、そして私は反対にその本をとったのでしょうか。それは私たちはお互い違った人間だから、ただそれだけです。ですから、私が同情できた主人公は、彼にとってはまるで冷たかったのです。私を物語の中に招いてくれた著述は、彼にとっては厚い壁だったのです。

 

フィクションは現実からの逃避ではありません。フィクションは単に、有限の境界線、つまり両表紙の間で繰り広げられる、もう一つの現実なのです。人生とは違って、それには始まりと終わりがあります。私たちは本を閉じて、まとめをする事ができるのです。人生から学ぶより、フィクションから学ぶ方が簡単です。私たちはもっと安全な現実の中にいて、ほんの少しの事を学ぶ代わりに、フィクションの中で、沢山の人生を生き、沢山の事を学ぶ事ができるので、フィクションは大勢の人にとって不可欠なのです。

 

しかし、これら全ては、読者の、自分を小説もしくは物語にあてはめる事のできる能力にかかっています。読者自身の頭の中に現実の幻覚が築かれなくてはなりません。その、クリエイティブな創作に加わろうとする意欲、もしくは加わる事のできる能力がない読者は、作者が提供しようとしているものを受け取る事は『できません』。作者の創造物の中で分ちあう能力は練習によって上達します。文学を教える教師は何度もそれを目にします。まれにしか見ないシンプルなフィクションを書くナンシー・ドルーを卒業した若い人たちは、次第にアガサ・クリスティーのような単純な作品から、ロス・マクドナルドやジョン・レ・カレーのような、更に複雑な作品まで、更に優秀なミステリー作家の作品を楽しめる様になります。突然、ジョン・アップダイクやジョン・フォウルスのような、もっと難しい作家へと驚きの飛躍をなしとげ、そして、そこからは実にすばらしい作品へと喜びに満ちて飛び込んでゆきます。そして、いつしか、『隠された階段』、(これは私が8歳だった時、ナンシー・ドルーの中で最も好きな本だったので例に出しました)、もしくは、キャロリン・キーンの有名な作品集の中の一つを手にし、読み始めます。それははっきりいてゴミのようなものです。全く読めたものではありません!第二章に入いる頃にはネッド・ニッカーソンの首を絞めたくなります!60ページにかかる頃には、ナンシー・ドルーがどろんこの水たまりにでもはまって、髪の毛だけでも泥だらけになればいいのになどと願うでしょう。そして終わる事には、あなたは止めどなく笑い転げているか、本のページを一枚ずつ破りながら、儀式的にそれを破壊しているかのどちらかでしょう。

 

しかし、それは作品の質が悪くなったからではありません。単に読者が上達したのです。最高のフィクションを受け止めるには、何年もにおよぶ、思考の域を延ばす読書が必要です。練習不足の、あるいは経験の浅い読者には、何が起こっているか理解する事ができません。作者はその違いについて分かっていないなどとは思わないでください。マリオ・プゾーはかなり高度な、大変好評な評価を得たけれども各7冊ずつしか売れなかった本を二冊書きました。(もちろん、ここではちょっと数字は極端に書いていますが)そして彼はとんでもないと思ったのです。彼には養わなくてはならない家族がいました。そこで、わざとゴミの様な作品「ゴッド・ファーザー」を書きました。そして、なんとその作品は歴史を作りました。なぜならば、それは、彼の、より良い作品を読むには、訓練と願望に欠けた、もっと多くの観衆に手が届くものだったからです。ジョン・アービングの『ガープの世界』も同じ歴史を繰り返しているのではないかと、私は推測しています。ただ、後者はかなりそれに気を使いながら、もう少しスタイリッシュに作られている様に思います。(そして、私はたまたまそれらの本は、彼らのもっとシリアスな作品よりも良い作品だと思っているのです)

 

私の申し上げたいのは、読書をしない人々は、手に取る少数の本が何を言っているのか理解する事ができないという事です。読書家でさえも、単に、自分たちの必要や欲望を満たすものでない書物を受け取る事ができない事が多々あります。フィクションの作品の価値を判断する一般的なスタンダードはありません。

 

どの悪が良い悪なのでしょう?

 

周りに廻りましたが、エンザインに載ったパイプを誤解してしまった人たちの話に戻りましょう。彼らはパイプに気がつき、パイプはモルモンにとってよいものではない事を知っていたのです。彼らが理解できなかったのは、どうしてパイプがそこに載っていたかという事です。

 

フィクションで悪を扱う時も同じ様な問題にぶつかります。ポルノに犯された人たちの多くは、本屋に行き、聞いた事のある本、あるいは、特にけばけばしい表紙の本を買い求め、読み始めます。彼らは文字が形どる言葉を、問題なく理解する事が出来ます。作者がいつセックス、暴力、 又は、子供達が声に出すものなら思わず彼らの口を手で覆うであろう4文字言葉について語っているか分かっています。しかし、パイプの挿絵の背後に隠された道徳的なメッセージが分からなかったエンザインの数人の読者のように、彼らはフィクションを読む時、何が起こっているか、本当に単純に理解できないのです。彼らには邪悪な本と悪を載せた良い本の見分けがつかないのです。そして、最終的にフィクションは全て悪を載せているので、善良な、しかしフィクションの観点から言うと文字の読めない批評家は、読む本全てがすこぶる悪に満ちていると恐れおののき、全て禁止にされるべきだ、となってしまうのです。

 

ですから、近代の自称批評家達は、マーク・トウェインの全作品の内、『トムソーヤ』だけを厳しい警告を載せると言う条件付きでなら、国公立の学校におきましょうなどという推薦をする様な馬鹿げた事をするのです。『王子と乞食』を禁止するですって?あなたはその本の中身をご存知なのですか? だってその中には自分たちの苦悩を社会制度のせいにする犯罪者がいるじゃないですか。そして、その本は罪を正当に裁かれた犯罪人を同情する様に教えています!それでは、ハックルベリーフィンはどうでしょうか? もしあれが社会に対する反抗の線路でなければ、他に何がそうであるか私には分かりかねます! あの忌々しいNから始まる単語が毎ページに登場するのは言うまでもありませんが・・・という具合です。

 

もしあなたが本の全体的な意図に関して誤解を招き、意味を違った風にとろうと固く決心しているのなら、そうできない本は考えつきません。私は二人の兄弟が両親の海船を乗っ取り、弟を縛り付けて殺すぞと脅迫し、船内の全員を恐怖に陥れ、船が沈んでしまう寸前になるまで酒盛りのばか騒ぎをする本を知っています。その同じ本の中では、女性や子供達が生きたまま炎の中に投げ入れられ、血みどろの戦いの中では、正義側の一人が敵の頭を切り取り、私たちはそれを応援する事を期待されます。また、女の人が風俗的な踊りで男の人の性欲をくすぐり、王を殺させました。そして、それでもまだ十分でないならば、同じ著者の他の作品では、人間の生け贄に深入りし、マフィアのような組織を作り、人殺しをし、裁かれずにのうのうと生きている男が出てきます。事実上悪の青写真です。

 

ここにいる方の一人でもこの本を禁止する事を防ぐ為に、BYUで昼食に二年間ぐらい出かけていらっしゃって、今かえってこられた方々に申し上げますが、私が今ご説明しておりました本は、モルモン書と高価なる真珠です。

 

私は全ての本は悪でないと申し上げているのでしょうか。出版の自由と表現の自由は全てを守るのでしょうか。

 

そうではなくて、私の申し上げているのは、悪は存在し、悪は存在するということです。もし語義上の不合理をお許しいただけるなら、良い悪と、悪い悪と、中間の悪が存在します。

 

不定詞を解体する事を強いられる著者として、今私はあえて、絶対的存在を解体する事に挑んでみたいと思います。フィクションに関連する悪は全部で3つあります。

 

フィクション内で描写される悪

 

フィクション内で奨励される悪

 

フィクション内で実現される悪

 

類比させ、事を明確にする為に、表現の自由の基本を振り返ってみましょう。表現の自由は明らかに悪について語る権利も含んでいます。教会の中央幹部は、共産政治の悪から幼児虐待の悪に至るまで、聖餐会に出席しないという悪から、祈る事を忘れる悪まで、悪について語る事にかなりの時間を捧げています。

 

そして、霊感を受けて書かれた憲法で、悪を奨励する権利も保証されているという事に反論する人はいないと思います。罪悪な行為を奨励するスピーチが許させているのです。アメリカでは、改革、犯罪、卑怯な行為、不正直を奨励する事が出来ます。私の住んでいるオーレムの近所で、税金を払わない様に奨励して歩いている男の人がいます。それはまさしく罪ですが、誰も彼を止めません。なぜならば、彼にはその権利があるからです。どの社会においても、ある人にとっては悪と思われる事でも、違う人にとっては良い事で、公平に思える事があります。そして、自由な国では、政府が一方を封じ押さえ、一方を奨励する事は禁じられています。各個人が両側の意見を聞き、個人的な判断を下す事を期待されているのです。

 

しかし、第三階級の悪、つまり、言葉による表現自体が悪であることがあります。その典型的な例が、混雑している劇場で「火事だー!」と叫ぶ人です。その人は冗談を言っただけだと言えるでしょう。 表現の自由により嘘をつく事ができるとも言えるでしょう。しかしながら、実際のところ、その嘘によって起こる混乱の中で、人の命、又は手足が失われるかもしれないのです。同じ様に、戦争中に軍の移動に関する情報を公表する事も、表現の自由によって保証されることはありません。なぜならば、それは命に関わる事だからです。時には権利が衝突する場合があります。自由社会はそれを保持する為に、自分たちの自由を制限する必要があります。

 

これはフィクションにどのように当てはまるでしょうか。全てのフィクションは悪を描写しています。しかし、悪を描写する事は悪い事ではありません。そして、全てのフィクションは、究極的には作者の道徳的信念を表し、そして、各作者が違った道徳的信念を持っているので、ある作品は少なくとも幾人かの読者にとって罪悪だと思われる事を奨励してしまうであろう事は逃れられません。

 

フィクションが悪を実際に実行する場合においてのみ、それは危険なものとなります。そして、その場合、自由社会の政府はそれを制限する事を考慮し始めます。

 

ポルノはフィクションが悪を実行している明らかなケースです。ポルノは直接的、又は間接的に性的な満足感を与える為に作られています。ポルノの魅力は文学的なものではありません。作者は技術的に有能であっても、ポルノの影響は美的ではなく、官能的なものです。それは読者又は観覧者に、そのような、短時間で得られる楽しみを更に追求させます。

 

多くの人にとって、ポルノは大変退屈なものでしかありません。込み合った劇場で誰かが叫ぶ「火事だ!」という声に驚き、出口めがけて走らない人が大勢いるのと同じ程、そのようなもの(ポルノ)に、あまりひかれない人もいます。しかし、それにひかれやすい人は、ひどく衰弱させられてしまう可能性があります。初めに、それはエスカレートしていくものです。普通ポルノの消費者は以前は満足していたものがだんだん満足できなくなって来て、自分の欲求を満たす為に、前よりも更に異様で、暴力的なポルノを探していることに気がつきます。第二に、女性が野蛮に扱われ、自分の満足感だけが目的であるファンタジーの世界へ普通の消費者を引きずり込む事は、破滅そのものです。第三に、ポルノが他の性的な犯罪の原因になったという事の証明がされた事はありませんが、それが、そのような罪のそばにいつも存在している事は明らかにされています。レイプや殺人、拷問をする様な人間は、まず、ポルノの消費者でありがちです。そして、ファンタジーと残酷な現実が内側でどんなに密接に絡み合っていようとも、それらを識別するのは困難なことです。