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芸術・道徳・そして道徳水準

 

ジョン・ガードナーの道徳水準の高いフィクションについての視点

 

 

BYUの演劇専攻の大学生だった頃、友人達と芸術artについて、いわゆる深く意味のある会話を延々としたものです。あっ、失礼、こう言った会話の中では、芸術はいつも小文字で始まるartではなくて、大文字で始まるArtで扱ってきました。 (英語では特別に大切な名詞は、小文字ではなくて、大文字ではじめて、格差をつけるのでこの様に言っています。) 私たちはモルモン芸術とは何か、それは(存在する)可能性があるか、良い芸術と悪い芸術の違いは何か、つまり、芸術家の観衆に対する責任は何か、そして、芸術評論家、観衆、そして芸術家自身の責任は何か等について思案しました。結局これだという結論に到達する事なく、ジョン・ガードナーの「道徳的フィクション」 (1978年 ニューヨーク発ベーシックブック出版) “Moral Fiction” (New York: Basic Books, 1978) を読むまでは、それについては、その時たどり着いた不決断状態でいました。

 

ガードナーが全ての答えを持っているという訳ではありません。しかし、彼は常に私がその本を誰かに呼んで聞かせたいという思いに駆られる程、十分な答えを持っています。私は、本の価値をなくする事を禁止する自分自身の信条を無視し、この本におびただしく下線を引き、付箋を貼り、星印をつけました。つまり、この本によって、私は元気づけられ、動機づけられ、そして、励まされたのです。

 

どうしてかって?だってあなた、私は、なんと言っても、サイエンスフィクションを書いているのです。しかし、執筆は執筆でしかありませんが、ガードナーが指摘する様に、芸術によって、教える事を免れる事は不可能です。あなたが教えようと意図するかしないかに関わらず、観衆はあなたの作品から教訓を学びますので、どんな教訓を含むか、そして、その芸術を良いものにするか否かは、芸術家と評論家の責務なのです。

 

本物の芸術が教訓的という訳ではありません。教訓主義と本物の芸術は混和しません。つまり、どういう場合であっても、教訓主義が道徳水準の高い物だとは決まっていないのです。ガードナーは「輪が闘争」について考えてみてくださいと言っています。「本物の芸術は『根本的に』道徳水準の高い物である」(p19 原本からの引用は『』内に記載)

 

しかし、どのようにして、道徳水準を定義すれば良いのでしょうか。これはモルモン教徒にとっては難問だと思います。ガードナーはモルモン教徒に向かってこれを書いた訳ではありません。彼は道徳自体が観念として価値を失ってしまっている文学評論家、小説家、学生そして、教師陣に向かって書いているのです。代わりに、間違った関連観念から、一般文学社会は芸術と善悪の関係を否定しています。

 

「評論家や彼らのコメントに耳を立てる類の芸術家達が使う言葉は、大変奇妙になって来ている」とガードナーは言っています。「感情や知的な確信について語る訳でなく、感動的で、驚きに満ちたひねりや筋書き、又は、すばらしい登場人物やアイデアについて語る訳でもなく、しかし、『独自性』、『発見的』、『構造主義』、『形式主義』、または、『不透明な言葉』、そして、例えば、現代主義とポスト現代主義等、知的な牛でさえも頭をひねりたくなる様な、細かい区別でいっぱいです。評論は以前よりも遥かに読みにくくなっているものの、内容は、誠にとるに足りないものになって来ています。」(p4)

 

基本的に無神論者である観衆、もしくは少なくとも、自分に影響のある人が聞くかもしれないところでは神について語る事を恥ずかしく思うような人たちを念頭に、ガードナーは「道徳水準の高い芸術は、人生の基盤をすくいとるのではなく、向上させるものである」と、定義しています。「それは、少なくともしばらくの間、神々と私たちの間をつなげようとするものです。」(p5)「芸術は築き上げてゆきます。つまり、それは決して孤立していません。・・・はっきりと道徳的に良い影響がある場合に限り、まねる価値のある例と、覚えておくにふさわしい永遠の真実、そして、破壊や無関心とは相反し、人生の確信に向けて人間を刺激し鼓舞するような、可能性に満ちた慈悲深い視野を示す時、それが破壊するのは悪のみであり、・・・それ自体は善である。」(Pp15,18)芸術は悪を見せはしますが、賞賛はしません。つまり、芸術は善を表し、それを価値のある例として承認するのです。

 

もちろん、モルモン教徒は道徳水準の高い芸術に対して、頻繁に少し違った観点を持っています。(彼らにとって)それは聖餐会で見せる事の出来る様な芸術、つまり、悪の記載が全く無い芸術、もしくは、更に嘆かわしい事には、それは良い事しか見せない芸術なのです。

 

私はこれにかなり頻繁に出くわします。演劇『リバティー牢獄 Liberty Jail』の中で、私は善良な人々が教会を去っていった時のあまり喜ばしくない動機を見せる試みをしました。(以前聞いた事のある、子供っぽくあまりにも単純化された意見とは相反し、教会内での意見の相違は必ずしも福音との相違ではないのです。つまり、疑いもしくは迷う心の基盤が必ずしも常に罪であるわけではないのですが、悲しい事に、そうであるという考えが全盛しています。)その劇は、シドニー・リグドンの様な人々が、まだ教会の高い地位に就いていた時から、良くない影を落としていた様に見せた事について、激しい批評を受けました。あたかも、それらの人々は教会組織で働いていた時には背教の種すら植わっておらず、ある日突然背したかのようにです。

 

その非難は、煮詰めるといつも、醜い物を舞台の上で見せたという事に行き当たりました。私は、憎しみ、嫉妬、欲、そして醜態を見せました。本当の末日聖徒の芸術家は観衆に醜いもの、もしくは難しい事、例えば、教会歴史の中で、高い地位に就いていた人たちが、たびたび予言者に従順でなかったり、主の御霊に耳を傾けなかったりした事があるという明らかな事実について考えさせる様な事はしない(するものではない)という事に,私は気がつかなかったのでしょうか?末日聖徒の芸術家の任務は、この世にもっと美しい物を届ける事であると、私は教えられていました。

 

これに関する問題は、良い人が悪い事をするのを見せる事は、見ている人のモラルを崩すので悪い事であるという、プラトーの古い間違いから来ています。この意見に対する最高の反論は、これに従う事のばかばかしさを見せる事でしょう。もし、芸術が、良い人が良い事をする事のみを、悪い人が悪い事をする事のみを見せるなら、それは現実と大変かけ離れた物になってしまいます。なぜならば、完全に悪い人など(主が間違っている場合と絶対に悔い改めの出来ない数パーセントの人を除いては)いないからです。

 

良い人も悪い事をする事があります。実際、私は、とても良い人なのですが、不注意に、あるいは一時的な弱さによって、他人を深く傷つけてしまったり、とんでもない結果をもたらしてしまう様なひどい間違いを犯してしまった人たちを、個人的に知っています。それが現実です。もし、末日聖徒が自分の内面を見るならば、彼らは、基本的に、正しい事をしようとしている善人なのです。もし、今までに良い意図を持った人でも間違いを犯すという事を、講談師から聞いた事が無いので、(善人である)自分も間違った事をするはずがないという結論に達している人がいるならば、芸術家はその責任を見捨てており、彼の観衆の道徳水準は低く、より高いとはいえません。そのような人たちは、彼らの行動は全て、善人の行動だと思い込みます。悔い改めの余地を探さなくなり、かえって、他の人たちを自分たちと同じ様にする事に励みます。

 

一方、もし、講談師が善人が悪事を行う事を見せていたなら、その時、彼は観衆に自責の念を植える機会を得ます。芸術家は時には悔い改めを、罪人が自身の罪につぶされてしまうところを、更には善人が苦しんでいる間、罪人が反映する事までも見せます。しかしながら、それらは全て、観衆である良い心を持った教会員に確かに悔い改への願望を与えます。

 

短縮して申し上げますと、道徳的な芸術家にとって、確信を与え、築き、構成する事は義務なのですが、その道具の一つ、つまり、その積み木にあたる物が、醜さなのです。美と醜さは反対の物ではありません。ガードナーが言う様に、「詩人牧師の本来の直感は、ある種の特別な秩序の様なものです。それはある部分感覚的で、愛するものや憎むもので構成され、ある部分優越し、抽象的で、明確ではないが、愛されるべきものと憎まれるべきものの一般的な区別が力強くはっきりしている秩序  言葉を替えて言うならば、肯定されるか、バラバラになるか、である。芸術家は愛するものを美と呼び、憎むものには言葉が無く、(『憎悪』ではなく、『怪奇』でもなく、『意味希薄』でもなければ『罪悪』でもない)彼はそれをただ外に追い出したいだけである。」(p156 『』内は原本より引用)

 

大切なのは物語が善良な秩序に貢献しているかどうかです。

 

もし、芸術が悪を描き、それを痛い物、価値のない物、マイナスの物、破滅的な物悪い物として見せている時、それは良い物が、美しく、高揚的で、好ましい物としてみせられている作品と同じくらい道徳水準の高いものです。芸術が醜いものを見せないとき、それは道徳水準の高いものではありません。芸術が醜い物を正直に見せる時、それは道徳水準の高いものなのです。

 

しかしながら、モルモン芸術の中で、善を悪として見せているものがなんと沢山ある事でしょう!それはたびたび、未熟である事、又は不可能な事、あげくの果てには退屈な物を善として見せています。『善』を『素敵』にスケールダウンさせる様なネチャネチャしたG評価の映画は(アメリカで用いられる映画/印刷物の段階付けシステムで、Gは一般視聴者向けの安全な物、Rは子供向きではない映像、内容、もしくは言葉がある物を示す)悪を貴重な体験の様に見せるR評価の映画と同じくらい害になります。なぜなら、両方とも善を避け、悪を支持するからです。

 

モルモン教徒は、道徳を徳の同意語として扱ってしまう先入観を克服しさえすれば、道徳水準の高い芸術を創造する、とてつもない可能性を秘めています。私たちは、様々な形で表される心ない自己満足を攻撃しなくてはならない時に、 ルノを攻撃するのに時間を費やしすぎています。つまり、誰かが文字で評価を付けたかつけないかに関係なく、破滅的な世の中の視点から子供達を守る代わりに、R評価の映画を禁止するのにエネルギーを費やしているのです。過半数がモルモン教徒の高校で、先生や教科を尊重する態度が欠けているのが一目瞭然の教室を見た事がある人なら、お分かりでしょうが、私たちは子供達を泥から守っているかもしれませんが、その代わりに与えなければならない教育を何も与えてはいません。実際のところ、社会が善を価値ある物として見なす限り、善良な芸術は悪を追い出します。つまり、芸術が単なる政治的ポスターのごとく扱われる時、(党の方針から外れるからそんな事は言えないのですが!)一般市民はどんなゴミの様な作品でも、面白ければそれを観る様になってしまいます。

 

これは決して、私がポルノを支持しているという訳ではありません(他の殆どの人のように、私もポルノに対する個人的な定義はございますが)。その代わりに、私の思いはガードナーの次の言葉とまさしく同意します。「私はセックスと暴力狂に強く反対します。そして、検閲を推薦する訳ではありませんが、皮肉主義や絶望を信じる事にも、更に強く反対します。一度警告が発されると、善良な芸術は簡単に罪悪な芸術を負かしてしまい、現在見受けられる様なトップクラスの芸術不足は、社会の病的状態に引きずられる事なく、挽回されるでしょう。とはいうものの、この二者がお互いのしっぽを追いかけ回す可能性もなきにしもあらずですが・・・

 

「本物の芸術はそれによって社会が殺されるのではなく、生かされる神話を作り上げます。そして、明らかに私たちの社会はそのような神話を必要としています。」(p126)世の中(の人々)が、これ以上、道徳につばを吐きかけ、人生観を意味も目的も無い、偶然の出来事の様に見せる芸術と共に生きる事が出来ない以上に、モルモン教徒は、これ以上現実との関係を絶っているので道徳水準が高いというふりをしている芸術と人生を共にする事は出来ません。

 

モルモン教徒の芸術を弱めるもう一つの傾向は教訓主義です。これまでに十分すぎる程善意から来るこのような勧めを聞きました。「どうして主人公が前世から現世、そして永遠をたどる、救いの計画を見せる劇(小説、お話)を書きにならないのですか?」 私は普通丁寧にお答えしますが、私の本当の答えは、「なぜなら我々は前世に生きている訳でもなければ、永遠に生きている訳でもないからです。更に、日曜学校のマニュアルにある抽象的なレッスンを書き直す事より、もっと他にする事があるからです。」芸術家にとって、人の行動に伴う結果を見せる事の方が、観衆に神学的教義を告げる事よりも遥かに重要な事だと私は思います。講談師の仕事は解析ではなく、日常の人間関係における経験なのです。ガードナーが言う様に、(なんだか全ての点において、彼の言葉を借りている様ですが)「人生は全てが連携、一難去ればまた一難、牛に、戦争に、チュウインガムに山。つまり、最高の、最も重要な芸術は全て従属:痛みから来る罪と、それから来る罪悪感です。

 

ガードナーはさらに、変化する芸術のスタイルについて非難しますが、モルモンの芸術家もそのきらびやかに塗り立てられたパレードのワゴンの後をついて行きたいという誘惑に会います。不透明な書き方が流行っているために、執筆はとても曖昧になりました。つまり、サスペンス(安物雑誌のうってつけ道具)など今時使おうとする作者はないので構想は慎まれ、飾り付けやスタイル、芸術のマナー等が重視され、芸術自体の資質は殆ど失われてしまっています。しかしながら、芸術の資質のみが実は最も重要な物なのです。もしあなたにとって、ネブラスカの牛の一日について書く事と、意図せず行った事の為に教会から剥脱されてしまった人の苦悩について書く事との違いはそれほどないと感じるならば、あなたは芸術に関わる必要は全く無いでしょう。そして、自分の芸術作品の道徳性よりもそのスタイルに価値をおくならば、そのようなエゴが作品にも表れるので、従って、作品は道徳水準の低い物となるでしょう。

 

大学院で執筆を専攻しているある生徒が、ある日こんな事を言いました。「何についての物語を書くかは、良い執筆スタイルを極めるまではあまり重要じゃない。」私はこの生徒が、将来水道工事かコンピュータープラグラマーのように、スタイルがどうであれ、労働の結果がその意図する働きをきちんと果たす時に初めて認められる様な仕事についている事を心から願います。

 

自分自身の為に執筆をしているのだという芸術家の主張をあまりにも頻繁に耳にします。「作者は自分を除いては、他の読者についてあまり気にしていないかもしれません。しかし、感情的に共有するところはないという点を除いては、そのような芸術は公共の場に存在の余地はありません。誰かが、少なくとも少数の他人の為に書く時、それは全ての観衆に向けて書いているという事ではありません。つまり、人は自分と似た他人に向けて書くのです。」(p20)私は全ての芸術家が、彼らの作品に共感する人々、つまり、彼の作品を見つけ出し、芸術家自身が彼らの芸術を受け入れる能力を邪魔する事のない様な人々、によって構成された理想的な観衆を持っていると信じたいものです。

 

それに、私の目には、自分の喜びだけを目的としていると声を大にしている芸術家程、他人を喜ばせる為に流行やスタイルを一生懸命追っている様に見受けられます。それに、もし本当に芸術家が自分に忠実であっても(それがどういう意味であれ)、忠実さは何を保証する物でもありません。つまり、「私たちは正直ではなく、忠実という誓約にはまってしまっています。(一つは一時的な感情に基をおき、もう一つは注意深い考えを基盤とする) その為に、私たちは、説得力があり、人生を支えてくれるフィクションの入り交じった詩よりも、自殺思考に向き合い、そのような思考を讃える詩を尊重してしまうのです。」(p43)それに、「根本的に良質な芸術家でさえも、怠けて自分の芸術をおもちゃの様に扱い、エゴと抽象的考えを運ぶ道具としてしか見ていない者は、聴診器をはえたたきとして使う男のようなものだ。」(p91)

 

しかし、ガードナーの本の刺す所は「本物の芸術の働きを、分かりやすくそして出来る限り全体的な説明を入れて誉め、偽物の芸術を、芸術のなすべき働きを怠っている所をけなす」という形で評論する責任のある評論家」なのです。(p16) 観衆に向かってこちらに注目せよ!あちらを見よと発表するのは評論家なので、彼らは膨大な力を持っています。もし、評論家達が良い芸術家に注意を集めなければ、彼らは消滅してしまいます。つまり、「誰も聞いた事のない優秀な小説家、画家、作曲家はつまり、存在しないのです。ですから、そのような優秀な芸術家が存在するにもかかわらず、私たちは、二流の評論のために、実用的な目的の為だけに、二流の芸術の時代に生きているのです。」(p56)

 

「現代の芸術の殆どはつまらないか、もしくは間違っているかです。いつの時代にも悪い芸術は存在しました。しかし、文化の世の中に対する一般的な視野と無神論主義が歪んでしまった時、殆どの芸術家は悪い芸術を良い物と勘違いして、それを目指してしまいます。(p16)そしてガードナーは私たちが観衆として善の肯定、啓発、道徳を求めるかわりに、目新しさ、珍しさ、曲解を求めている事を非難しています。考えるだけで暗くなってしまうくらいの量の、自称知的なモルモン教徒達が、徳と勘違いして、このアメリカ特有の病気にかかっています。一方で、主流のモルモン教徒達は反対ではありますが、同じくらいの衰弱を及ぼす病気、つまり、無関心という代価を払って承認を求めようとする傾向  成長を犠牲にした潔癖、知的又は正直な事を言う事を犠牲にして得る居心地の良さ等、に気をつけなくてはなりません。それは両方とも不道徳です。なぜならば、それらは芸術家と観衆を罪の中で自己満足させ、悪と心地よく共存する方向へ導くからです。地獄への道は沢山あります。そして、モルモン教徒達も自分達にあったいくつかの道を見つけ、あまりにも上手にその道を駆け下りてしまっているのです。

 

 

 

 

 
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