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批評を通した説教

 

1982年 サンストーンリバー誌記載の評論に対する応答

 

オースン・スコット・カード

 

1982年サンストーンリバー2誌12月号 2425ページ記載の「小説という形の説教」にある、Charly and Sam (チャーリーとサム)に対し、スーザン・ウェイクフィールドが最近出した評論は、残念ながら、あまりにも沢山のLDS文学が遭遇する典型的な視点からのものです。モダニズムのしきたりの中で批評法を学んだ彼ら(ウェイクフィールドの様な評論家)は、モルモニズムのスタンダードで主流の批評法を判断するのではなく、時代の主流のスタンダードでモルモンの小説を判断します。結果として、ウェイクフィールドは、スーザン・ハウの言葉を借りて言うならば、場面設定が「モルモン文化の神話の中」だからという理由で、ジャック・ウェイランドの小説を批判していました。ウェイランドや同種の作家が犯してしまった罪は、「文学を使って私達の文化を探るのでなく、正当化しようとした」ところにあります。小説を書いている本人は、同類の人々に向かって書く場合、上手な執筆をするには、本当は信じている事をあたかも信じていないかの様に見せかけて書かなければならないという掟が、何処の石に刻み込まれていると言うのでしょう。例えば、ホーマー、ソフォクレス、シェークスピア、ディケンズ、そしてトゥエインなどの偉大な作家達は、自身の社会を正当化もし、改めもする事を書きました。肝心な事は、承認するか攻撃するかではなく、彼らが社会の一員として、他の一員に対して書いたと言う事です。

 

モルモン小説を外のスタンダードでもって判断するという問題は、モダニストが求める客観性、距離感、分離にあります。この基本は、フィクションの価値は「意味」から来るというものです。意味とは、残念な事に、誰かが小説家にそのように入れなさいと教えない限り、作品とは隔離しがたいものなのです。評論家が言いたい事を探し始めると、文中の中身でなく、作家が何を文中に入れたかを見つけ出してしまいがちです。物語りは経験されるものであり、解読されるものではありません。解読されるのは暴露されたものです。物語りを暴露された事柄にしてしまうとき、それはもう物語りではなくなってしまいます。そのような評論法では、フィクションを吟味する事は出来ません。そのかわり、そうすることにより、元の物語りと同じ効果を複製する事は到底出来ないので、違った形のものに変えてしまい、散漫な意訳を作り出してしまいます。

 

皮肉な事に、この評論法は、厳粛な批評的読者に、物語りの中にある説教を取り除かせてしまいます。これがまさしくウェイクフィールドがチャーリーとサムにした事です。彼女の使った文学的アプローチは、意味は物語りの中にあり、その価値がそこで明らかにされるべきであるという理念です。彼女は本の中にある意味を「説教」と呼んでいます。それは彼女がそれをあまり好きでないからです。逆に、もしウェイランドが彼女の承認するメッセージを明確に書いていたなら、彼女はこれらの作品を「モルモン社会を明かす重要な本」とか「モルモンの神秘に迫るすばらしい研究書」と呼んだでしょう。つまり、あなたのメッセージは底の浅い説教で、私のメッセージは啓発的な見識であるというのです。

 

「物語の意味」というものは、特定の記事を指して言う場合、どっちにしても意味の無いフレーズです。物語りというものは、テーマについての講演という形ではきちんと受け取られません。それは軽く手を加えられた出来事から得られる他人の経験を通して、自分の事の様に感じられる記憶として得られる経験なのです。物語りを読む事は、哲学を読む事とは類似していません。それは、私達が他の人と出会い、経験する事に似ています。

 

生活の中で、私達は目が見えるので、他の人々を知っています。しかし、実際は、他の人について私達が知っている事は、私達が彼らについて覚えている事、そして、彼らについて語る事です。他の人に会う度に、主に自分が変化しているせいで、自分の持っているその人に対する全体的な印象が違ってきます。しかし、過去に持った人に対する概念が、たいていの場合、人の印象を作ってしまいます。つまり、 彼らの行動のどれが重要か、どれがとるに足りない事か、どれが実体を表し、どれがそうでないかを、まだその人に会う以前に自分で考えた話によって、無意識のうちにその人を判断してしまうという事です。白人か黒人か、女性か男性か、モルモンかそうでないか、ロータリークラブの会員かそうでないか、教育を受けているかいないかといった名称を、人にすぐつける傾向があります。

 

私達は同じ様な行程を、物語やそれに出てくる人物にも行ってしまいます。ウェイクフィールドはチャーリーとサムにそんな考えを持ってアプローチしたのでしょう。この点で一番面白い事は、これらの作品がとてもよく売れるという事です。ウェイクフィールド個人の傾向を見ると、おそらく自主的にこの本を読む事はなかったでしょう。「ウェイランドはおそらくモルモンフィクションのベストセラーになる方程式をみつけたのだろう。もし本がよく売れたのなら、それは「方程式」を見つける事を通して定義付けができる。」ですから、彼女はそれを読み始めた時、作者に身を任せ、あるフィクションの出来事に自分の記憶の誘導を任せる事はしなかったのです。代わりに、そこに実際にあるものに気づきもしない程、本に対しても、登場人物に対しても、既に、固く名称をつけてしまっていたのです。彼女はそれを心から読んだ事がないので、チャーリーとサムがどういう意味のものなのかを知る由もありません。彼女はページに書かれている言葉を読みながら、彼らについての話を頭の中で、独自にしたにすぎません。

 

それ以外に、 (このような引用がランダムにされるはずがないにもかかわらず、不正直にもランダムに取り出したと言いながら) 彼女が引用した文章の、気持ちの悪くなる様な誤訳に対する説明がどうしたら見つかるというのでしょう?

 

「サム、私はあなたに劣等感を与えているの?」

 

「少しね、僕たちの問題は、君と僕とは同じくらいだという事なのさ、伝道、大学、仕事・・僕が君より秀でているところは何もないんだよ。」

 

「それがあなたに脅迫感を与えているの?」

 

「女性というものは・・」

 

「男性なしでは完全でない?」と彼女は代わりに文章を終わらせた。

 

「いや、完全ではある、ただ、女性は・・」

 

「男性より優れていてはいけないの?」

 

「うーん、必ずしもそうじゃないんだけど・・」と僕は口ごもった。「ほら、女性は女性の役割というものがあるじゃないか・・」

 

「まあまあでいるってこと?」

 

「特定のところでは、女性も秀でていて大丈夫だよ。」

 

「ベッドメーキングとお皿洗いではってこと?」(1981年 ソルトレーク市デザレトブック出版 サム 83ページより)

 

ウェイクフィールドは二つ目のスピーチで会話を読む事をやめてしまいました。彼女の引用した箇所は至ってシンプルなのですが、そのシーンを全部読むと、(主人公のサムとは違って)暗黙の作者は良い発言を全て女性に与えている事が分かります。主題は、サラがサムに「わかったわ、じゃあ、今後仕事において、自分に出来る最高のものよりも、少し下で止める様になんて言わないでね」という時点で熱くなり過ぎ、サムの手には負えなくなっていました(サム 84ページ)。サラは能弁に自分の言い分をい言い終え、サムはといえば、技量に欠け、混乱している風に書かれています。これを公平に読んでいる人なら誰しも、ここに何らかの含蓄があるならば、それは、両性平等の取り扱いを求める訴えでありますし、第一これは主張でもなんでもなく、単にサムが、自分の女性に対する概念に当てはまらない女性とどうやってうまくつきあっていくかを学ぶ経験なのです。ウェイクフィールドがジャック・ウェイランドに、「あまりにも型にはまった、無神経な」性差別主義者の様なイメージを与えていると非難しているのは皮肉な事で、もし、彼女が、この小説からこんなにかけ離れた読み方をしていなかったなら、まさしく、ハウの言う「良い執筆」にかかせないもの、つまり、一般的文化の神秘を懐疑的な態度や客観主義を抜きにして見つめる事が出来る能力を、見せている事になると思います。実際のところ、このような本は殆どが十代の女の子に読まれるので、このシーンはウェイクフィールドが言う程ステレオタイプなものでもありません。

 

ウェイクフィールドはウェイランドの長い会話は細かすぎると言っています。これについては、彼女が会話の初期から、登場人物への関心をなくし、会話にまるで興味がなくなってしまっているので、驚くところではありません。

 

ウェイクフィールドは、サスペンスと恐怖が基本的な影響となるゴシックロマンスを、そんな影響等全く無く、ただ一つ似ているとすれば、文学的フィクションも含めた広いジャンルでも存在する、男女の恋愛関係くらいであるウェイランドの作品を、いきなりゴシックロマンスにつなげようとしているところです。

 

あたかも、ホーマーや、ボッカチオ、そしてディケンズが、ヘンリー・ジェームスやバージニア・ウルフの祭壇に膝まずなくてはいけないかの様に、ウェイクフィールドは内省と内容の複雑化を求めているのです。

 

ウェイクフィールドは、小説とは、「予想のつくロマンス」、「ありきたりの筋書き」、「方程式」と言った、予想がついてしまうものだという事を繰り返し説いていますが、実は、ウェイランドは常に、驚く程、クリーシェイや不自然なやり取りのない会話と登場人物の無い作品を書きます。モルモンの読者達がウェイランドを心の友とするのは、日曜学校のレッスンを書くからではなく、逆にそのような事を書かないからなのです。彼の作品が「ニュー エラ New Era」に載ったとき、読者は一目で、この人こそが、本当の人間の会話がどれだけリアルかを分かっており、ビショップの警句だけでは解決できない問題を、実際に見せてくれる人だという事に気がついたのです。ウェイクフィールドは、大衆の好むものは、既知の物とクリシェーで埋め尽くされた、あまりにも単純化されたものだという、一般のエリート主義の想定からスタートしました。そして、予想に漏れずそれは当たっていたのです。

 

しかし、私が、ウェイクフィールドの評論を却下するのは、彼女の視点が間違っているからではありません。それは彼女の個人的な反応であり、私が自分のバイアスや、誤読、そしてとんでもない結論にしがみつく権利がある様に、彼女にも、独自のバイアスや誤読、そして、とんでもない結論を持つ権利があります。個人的な物語の解読はかけがえのないもので、それは良いものです。私達は読みながら、無意識のうちに、書かれた文章をもとに、自分の記憶内で新しい小説を作りながら、編集していきます。ウェイクフィールドの評論で腑に落ちないのは、彼女の誤読でも、偏狭なそしてこの本に対する不公平なアプローチでもありません。それは、他の沢山の人々がする様に、現在先端を行く文学セオリーではモルモン文学を測れないばかりか、モルモニズムとモルモンの小説には、それは絶対に有害だという事に気がついていない点です。

 

読者に感じるよりも考える事を教え、作者には小説を通して、人間の経験についてのお話をする事よりも、知的な主張をする事を教える評論的教えは、T.E. ホルムによる「古典主義」と「ロマン主義」の区別に大いに基づいています。ホルムにとって、「古典主義」とは、宗教的にいうと、 ロマン主義の欠点は人間は完全になる事が出来るという考えであるとしながら、 神と人間の大いなる隔離を認証していることにあります。「ロマン主義が屈辱を受ける主な点は、完璧は人間でない何かに属しているという考えをもって、人間の関係の輪郭をぼやかしている点です。」ホルムが最も嫌っているのは、Croceの、そして、私が思うに、ジョセフ・スミスの、「永遠なる進歩人間の永遠なる完全への歩み」を唱える教義です。古典主義的視点から言うと、「完全というものは人間の見地から見て存在しないもので、それは、『人間の完成へ続く全ての道』を塞ぐものであり、この人生の悲しき悟りは、他のどんな態度をも、浅いと呼ぶに値するものです。」( ホルム作 ハーバート・リード編集  「人間と宗教的態度」推測 『ニューヨーク市ハーコート、ブレース、ホバノビッチ、1924年』1011ページ、17、34ページ太字は原作より引用)

 

ホルム以降の評論セオリーによると、人間とは堕落し、破滅し、不完全で、哀れで、永遠に手の届かない神について、つかの間の直感的な理解以上の喜びを感じる能力のない生き物だとされています。殆どのフィクションは実際にはこの様には言いませんが、評論家がそのような思想を共有しない優秀な作品を批評しなくてはならない時、必ず、このセオリーに当てはまる様に、小説を解釈し直します。幸運な事に、彼らは人気作品を批評しなくてもいいのが、せめてもの救いでしょう。人気作品は、もっと大きなコミュニティーの手が届きやすいところにあるという事自体、それはそんなに良いものではなく、無視しても良いものであるという証明になります。選ばれた少数の者だけが、本当に高い位置にあるものを賜る事が出来るので、ぴったり当てはまる聴衆だけが、優秀な作品を理解する事が出来ます。泥で汚れる事を防いでくれるので、情熱に欠けた距離が目標になり、聴衆を少なくしてくれるので、見つかりにくさが徳となり、崇高なものを見つける為に自分より外のものに目を向かせてくれるので、人生を侮って見る事が議題となる。よくお聞きなさい、本当に読むのではなく、崇拝しなさい。我々は、ナイーブにも、主人公の中に自分を見つけたり、 (やれやれ、なんと言う哀れな錯誤なのでしょう!)あるいは、決定的な、数学的に完全なスタンダードでではなく、読む人によって、それがその人にどんな影響をもたらすかという、永遠に変動的な基本により、自分の感情的な反応で作品を判断したりする事をするべきではないのですから。

 

結果、文学評論はモルモニズムのみならず、アメリカ自体に対応する事はもはや出来ません。今世紀で、人々の人生に影響を与えた最も重要な小説は、まぎれもなく、我々の時代最も良く読まれた、マーガレット・ミッチェルの風と共に去りぬでしょう。しかし、性質的に風と共に去りぬは、この評論メソッドには適していません。「何もかも失っても、あきらめない限り、生き残れる」とか、「届かない幸せを追いかけてはいけない、幸せは既にあなたの手の中にあるのだから」と言った様な、単純な主題を除いては、その意味は、離したり言い換えたりされる事が出来ません。評論家は本物の読者が小説に求めるものは、意味ではなくて、むしろ、力強く、真実に満ちた経験なのだという点を、完全にとり間違えています。大恐慌時代の読者にとって、風と共に去りぬは、否定不可能なほど大切で、真実を携えたものでした。それは、自分達の葛藤を肯定し、彼らが誰であるかを、きれいな暴露でではなく、力強く、上手に焦点を当てた経験によって教えました。ジャック・ウェイランドの本も、私達を名指し、 ウェイクフィールドが好むそれよりも、遥かに、モルモン文学とは何かについてもっともな意味を持っているので、 何千ものモルモン教信者は、それを大切に思っているのです。

 

ウェイクフィールドはモルモンの信仰にはそぐわない、人間の見地からなる評論セオリーを信じています。これは私達が他の「キリスト教」の何処とも異なる点であり、西洋の風習から私達を浮かせる点でもあります。私達は(p136)ペラギウス異端信仰を支持し、人類の完成を信じ、神は人間の形でのみ見られる事や、人間の進歩上達を信じます。モルモン文学、つまり、私達が自分達に語る人間の物語りは、今日の文学社会のスタンダードでは「優秀な文学」にはなれないのです。なぜならば、そうなる為には、作品はモルモン信者が、解決できない「魂のジレンマ」に直面していなければならないからです。人生における幸福や、和解と喜びを見せる本は、「ナイーブ」とか「あまりにも見え見えだ」といって、決まって却下されます。ジャック・ウェイランドは救われる事の出来る、完全を極められる、幸福で、有能な人々を描き、文学ファッションの虜になっている読者は、それを「ばかな!これは現実味がまるでない!」と思うのです。

 

これは、ウェイランドが「正し」くて、ウェイクフィールドが「間違っている」という事ではありません。実際のところ、私は、チャーリーとサムはウェイランドのもっと短めの作品のように、満足のいく、十分信じられるものと同様には感じられませんでした。ウェイクフィールドの反応は、個人的な趣味からくるもので、作品が受け継いだ落ち度からくるものではないので、それを買いに本屋へ走るのは本当に馬鹿なやつだと言わない限り、彼女は、どの本にも反発する権利があります。大衆が好むものは全て軽蔑に値すると言うエリート主義者の見方は、最も良く読まれているベストセラーは人口のほんの一握りにしか読まれていないと言う事実を全く無視しています。だいたい本を読む人口自体とても少ないので、それ自体、エリートなわけです。そして、作品中の説教でなく、物語り自体を読む人々こそが、厳しい評論家達なのです。彼らは研ぐべき斧も持っていませんし、ただ、その作品が「偉大な本」だからという理由で、その本を好む様なふりはしません。

 

しかし、エリート主義の疑問以上に、反モルモン哲学の文学的スタンダードにあわないからと言って、ウェイランドの作品を却下する事は、モルモン文学を受け入れる事をまるっきり拒む事になります。そもそも英文学は、最も人気のある演劇家を持ってその頂点に立ったのです。つまり、デフォーやディケンズ、それにトウェインは人々への愛情から、文学界の大砲の中に踏み入ったのです。ホルムが「ロマン主義者」として許せないのは、そのような作品が、人間は文字通り神の子であり、完全な状態に成長する事が可能な生き物であるというモルモンの基本的な教義を承認している事なのです。

 

アメリカ文学を最も良く真似ている文学中に優秀なモルモン文学を見つける事は、優秀な英文学が、オウィディウスやホラティウス、それに、ボエティウスの翻訳本の中に見いだされるという事実同様に、不可能な事です。 その文学によって、自分たちが何者であるかを認めるのですから、 優秀なモルモン文学というのは、モルモンの読者が読んで、真実であり、正しいと感じるものなのです。「優秀なモルモン文学」を書いてやるぞと思いながら書き出す事は、結果的に、確実にゴミの様な作品を作り出してしまう事になります。ジャック・ウェイランドは「モルモンのシェークスピア」ではありません。ジャック・ウェイランドはモルモンのジャック・ウェイランドであり、モルモン文学はどうあるべきかを熟知したふりをして、それに相当しない作品を作る小説家を責める代わりに、モルモン小説とは何であるかを観察し、それから私達は何者であるかを見いだそうと努力する方が、有効な時間の使い方だと私は思います。

 
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